中国では、洪水、旱魃などの大きな天災はすべて海神の祟りとされ、歴代皇帝はその再来が無いようにとの願いを込めて天災の後には必ずこの南海神廟に寄進をしている。
その寄進の記録が石碑として南海神廟の中の回廊に多数残っているが、この石碑の数が災害の多さを物語っているとも言えるのである。

また石碑の数の多さは林の如し、ということで南方碑林とも呼ばれている。
15、6世紀の明朝のものが多いが、それらは屋根のある回廊の中にに建てられていたせいか風化もせず、今でもハッキリと文字を読み取ることができるのが素晴らしい。
本殿の礼亭

礼亭のすぐ前、向かって右には明朝の洪武帝が14世紀1370年に寄進した高さ2メートルくらいの石碑がある。
その対称の左側には18世紀初頭の1703年、清朝の康熙帝が寄進した万里波澄(どこまでも海の波が澄み切って穏やかであるように)という石碑があり文字は康熙帝自らが筆を取ったものである。
その文字は中国史上最大の領土を誇った清朝の皇帝らしい伸びやかな字体である。

この2つの石碑の建設には333年の時代の差があるのであるが、今では見事なバランスで配置されている。
この南海神廟の極彩色に塗られた南海神の鎮座する礼亭の奥にもうひとつ建物(奥の院)があった。
そのご本尊は予想通り女性で、二人の侍女にかしずかれた明順夫人と書いてある。

結局、霊験あらたな南海神も奥方の明順夫人にすべてコントロールされているということなのかもしれない。
境内の門を西側に出ると「浴日亭」という優雅な名前の建物が広い空き地の向こうの小高い丘の上にあった。
丘の周りには馬やらくだ、人物の石碑が苔むして何体も建っていたが、一体いつの時代のものなのであろうか。

昔の人はここから珠江に沈む夕日を浴びながらゆったりとした時間を過ごしたのであろうが、今では周囲を金網で囲った東屋の中に石碑が建っているだけである。
今は周りの樹木が大きく育って見晴らしはあまり良くなかったが、昔は日当たりも良く、珠江を見晴らす展望台としてさぞ見事な眺めであったのであろう。
それにしても「浴日亭」とは文字だけで、日当たりが良く眺めの良い場所を連想できる素晴らしいネーミングではないか。
しずかに昔を偲ぶのには最高の場所であったが、観光客が全く見当たらないのは何故であろうか。
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