勧修寺(かじゅうじ)で花菖蒲を見た帰り、地下鉄小野駅の東にある随心院に立ち寄ると、真言宗善通寺派大本山、仁海(951~1046年)によって991年創建と総門前の由緒書にありました。総門
鎌倉時代に古義真言宗と新義真言宗に別れた真言宗は分派が多く、明治末期の1907年、東寺を中心した四派がこの随心院を大本山として、真言宗小野派と称していますので、ここは真言宗寺院の中でも由緒正しい寺院です。薬医門
昭和に入った1931年、真言宗小野派では宗規を改正し、香川県の善通寺を総本山とする真言宗善通寺派と宗派名を改称しています。庫裡
善通寺は、唐から戻った空海によって813年に創建(随心院より178年古い)されていますが、平安末期には東寺の末寺となり、さらに鎌倉時代に随心院の末寺となっています。薬医門の内側
しかし真言宗善通寺派では、空海が建立した由緒ある寺院として善通寺を本山の上の総本山とし、随心院はそのまま大本山と呼称したようです。表書院(左)と本堂(正面)
さて、現在の真言宗には、本山寺院が高野山金剛峯寺、東寺、醍醐寺、仁和寺など18か寺(古義真言宗13寺、新義真言宗3寺、真宗律宗2寺)と多数あるようです。奥書院の庭
随心院と善通寺もその本山寺院の中の1つですが、真言宗内の最高名誉職、真言宗長者は、その18か寺の中から毎年選出(任期1年)されていますので、この随心院からも真言宗のトップが出ることもあるようです。奥書院の庭のハナショウブ
また、随心院のある小野は、遣隋使を務めた小野妹子の子孫、小野一族が平安遷都後に栄えた場所として知られていて、有名な小野小町ゆかりの井戸が境内に残っています。
小野小町は、遣唐副使としての乗船を拒否した罪で隠岐国中ノ島に配流された小野篁(802~853年)の孫(尊卑分脈)とされていますが、その実像は良く判っていないようです。隠岐中ノ島の配流地にある石碑
現在の随心院の本堂は、関ヶ原の戦いの前年(1599年)の建築、薬医門、大玄関、表書院は徳川時代初期の寛永年間(1624~31年)に完成したとされています。本堂の廊下