1335年九州に下った足利尊氏は、九州、四国で兵力を再編成して1336年5月、海から兵庫に攻め込んできている。

このとき楠木正成は、足利軍の勢いを見て、一旦京都を明け渡し、比叡山に移ることを後醍醐天皇に進言したが、上位の貴族から臆病者の提案であると却下されている。
正成は、仕方なく死を決意して主力の新田義貞軍と合流するために京都を出発したが、高槻市の北にある桜井駅で嫡男の楠木正行を説得して郷里に帰した話は有名である。
桜井駅にある楠公父子別れの石像

桜井駅の跡は、今も阪急水無瀬駅に程近い場所にあり、初代イギリス公使パークスが忠臣楠木正成を顕彰する英文の碑を書いているので、イギリス人をも感激させる行動を取ったのである。
桜井駅の記事
神戸に上陸した足利軍に対して楠木軍は奮闘したが、主力の新田義貞軍は義貞の命で戦わずして京都に退却している。
義貞には後醍醐天皇より下賜された女官、勾当内侍という美人の妻がいたので義貞は足利軍との決戦を躊躇したという説がある。
桜井駅にある石碑の扉には菊水の紋

天皇の側近に使えた貴族(一条経尹)の娘を下賜された義貞が、決戦を避けたいと思うのは無理も無いことであるが、友軍の楠木を見殺しにするという歴史に汚点を残す行動をしたのはいただけない。
新田軍の退却で楠木軍は、足利軍を一手に引き受けることとなり、孤軍奮闘むなしく湊川の地で戦死したのである。
湊川神社の入り口には、明治天皇の歌碑が置かれ「あた波を ふせぎし人は みなと川 神となりてぞ 世をまもるらむ」とある。

皇室に仇なす(足利軍の)波をふせいだ人(正成)は湊川で神となって(皇室の)世を守ってくれるであろうという意味であろうか。
湊川神社本殿の裏左側には、楠木正成戦没地が保存され、今も神社の聖地となっているようである。

1336年に桜井駅で別れた楠木正行(1326~1348年)は、成人後の1347年に北朝の足利軍と大阪で戦い勝利している。
この勝利を聞いた後村上天皇(1328~1368年)側近の北畠親房は、正行に余勢を駆って足利軍と雌雄を決める決戦をするよう命じている。
正行を祀る四条畷神社

天皇の命として重く受け止めた正行は、一族郎党3千人を率いて6万人という足利勢と四条畷で戦い、その地で戦死している。
楠木正行の墓の記事
その四条畷には戦死した楠木正行以下を祀った四条畷神社が湊川神社の創設のあと1889年に設立されて現存している。
四条畷神社の記事
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