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藤原清衡(10561128)が本拠地の平泉に1105年に創建着手、1124年に完成した中尊寺と奥州藤原三代の歴史を中尊寺の鮮やかな紅葉と一緒に紹介しましょう。

藤原清衡や子の基衡(11051157)孫の秀衡(11221187)が朝廷や藤原摂関家に奥州で産出する砂金や馬などの献上品を続けたため、奥州は源平合戦(11801185)中も独自の政権と文化を確立しています。

また基衡は、陸奥守として下向してきた藤原基成(11201190?・院の近臣という実力者)と親交を結び基成の娘を後継者秀衡の妻に迎え入れています。院の近臣が京都から平泉まで転勤してきていたとは驚きました。

そのため初代清衡は朝廷から陸奥押領使、2代基衡は奥六郡押領使、出羽押領使、3代秀衡は鎮守府将軍、4代泰衡(11551189)は出羽、陸奥押領使となり、軍事指揮権を公的に行使することが認められていました。

また、奥州にある摂関家の広大な荘園の管理も奥州藤原氏に任されていたようで奥州藤原氏の滅亡時、平泉には陸奥、出羽の省帳、田文などの行政文書が多数あったといいます。

奥州藤原氏は北宋や沿海州などと独自に交易していて、マルコ・ポーロ(12541324)の東方見聞録に登場する黄金の国ジパングの記述は、奥州の豊富な砂金と金色堂を見た中国人交易業者からの伝聞という説が有力です。

奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4100年に渡って繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となり、平安末期の戦乱が続く京を尻目に発展を続けていました。

平泉の経済文化を支えた金鉱山は北から今出山(岩手県大船渡市)、玉山(岩手県陸前高田市)、鹿折(宮城県気仙沼市)、大谷(宮城県気仙沼市)など、平泉から東方に位置する三陸海岸沿岸に並んでいます。

そのなかの大谷鉱山は最盛期の昭和10年代に年間約1トンの金を産出していたといいます。・・・中尊寺の紅葉が綺麗なのは、東北の気温差のせいでしょう。

つづく



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