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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



生前、父は戦争のことは一切語らなかったが、実は非常に危険な任務に従事していたらしい。

生前は穏やかな人柄で、命がけの任務を平然とやっていたとは、近親者でさえ誰も気が付かなかった

その任務の戦死率は46%、これは海軍軍人の戦死率16%の3倍である。

父が乗り組んだ、大連汽船の興安丸は日本軍の徴用船であった。



昭和12年、興安丸は大連を出発し揚子江河口の飯田海運桟橋で一旦荷上げし、南京陥落(12月13日)の1週間後に漢口(武漢)に入港したとある

父が興安丸に乗船した11月下旬、蒋介石は南京から重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口(武漢)に中央諸機関の移動を始めているが、南京陥落1週間後には日本軍の攻撃は武漢にも及んでいたことになる。



興安丸は武漢へ入港した最初の軍用貨物船で、武漢の大火災を見たと記している。

大火災の原因は日本軍の空襲か、撤退した蒋介石軍による焦土作戦か、今となっては知る由も無い。

暫定首都とされた武漢に、首都宣言された1か月後の12月下旬には日本軍の軍用船が入港したという事実は貴重な記録であろう。

実家には、「シナ事変における功に依り勲八等瑞宝章を授与する」という勲章状が残されていたが、当時わずか18歳の船員に勲章とは、この時の航海がいかに危険であったかを物語っている。

その後、軍の船として揚子江を遡り、洞庭湖まで航行したらしく、揚子江の泥水に比べて洞庭湖の水が清水で印象的であったと記しているが、当時3500トンの大型貨物船で洞庭湖まで安全に遡ることができたのであろう。

揚子江の衛星写真



昭和12年末から13年の初め、日本軍の貨物船が揚子江を洞庭湖まで遡ったという事実も貴重な記録であろう。

南京から撤退した蒋介石軍は、暫定首都と一旦決めていた武漢のある湖北省、洞庭湖のある湖南省をさっさと通過して、四川省の重慶まで一挙に移動したらしい。

昭和12年12月5日、武漢で撮影された悲痛な表情の蒋介石



昭和13年(1938年)10月、日本軍は武漢三鎮を制圧しているので、父が洞庭湖まで遡った10ヵ月後、武漢は日本軍の支配下となっている。

武漢三鎮(現在はすべて武漢市)



南京から武漢までの距離は揚子江に沿って600キロ近くあるが、日本軍はその間を10ヶ月で移動したことになる。

武漢の長江にかかる長江大橋



父の乗る興安丸は、昭和14年まで日本と揚子江、その揚子江を河口から武漢まで遡る物資の輸送に引き続き従事したらしい。

父が下船した後の昭和19年、興安丸はアメリカ軍によってラバウル港で沈められ、父の同僚の船員47名が興安丸と運命を共にしている。


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