石山本願寺を退去し、和歌山から貝塚と転々としていた11代顕如の本願寺は、1585年淀川沿い(現在造幣局のある辺り)の南北7町、東西5町という広大な土地を秀吉から与えられて、天満本願寺(川崎本願寺)の御堂を再建、一旦大坂に落ち着いている。

しかし数年後の1591年、秀吉から京都西六条堀川に移るように命じられ、天満本願寺の御影堂(10間四方)は解体されて京都に移設されたという。
天満本願寺のあった造幣局

翌1592年、11代顕如が急逝すると長男教如が12代を継いでいるが、1593年教如は秀吉によって隠居させられ、本願寺12代は3男准如が継ぐことになる。
西本願寺御影堂(左)と阿弥陀堂(右)

隠居した教如は、1596年に大坂に移って道修町にあった大谷本願寺に入り、さらに1598年に難波御堂(現在の南御堂)の土地を受け、翌1599年に難波御堂本堂の建築に着手しているが、この翌年が関ヶ原の戦いという激動期のことであった。
現在の南御堂

大谷本願寺の正確な場所は不明と言われるが、現在の南御堂には、大谷本願寺と刻印された巨大な梵鐘(1596年の銘がある)が残されているので、かなりの規模を持った寺院だったと考えられている。
梵鐘

同じ時期、准如の西本願寺では、教如に対抗して本町通りを挟んだ北側に津村別院を建立、400年以上を経た今日でも、大阪に南北の御堂が並立しているのが面白い。
北御堂(津村別院)

教如は、関ヶ原から2年後の1602年、家康から京都に東本願寺の土地を受け、再び京都に戻っているが、難波の土地は難波御堂難波別院、天満の土地は天満御堂天満別院としてそのまま残されていた。
天満別院の墓地

秀吉から天満の土地を寄進された26年後の1611年、(大阪冬の陣の3年前)、天満御堂天満別院は、大阪天満宮の東にある土地に「佛照寺」として移っている。
大阪天満宮

大坂城の対岸となる重要地を、徳川寄りの東本願寺に占有させることはできないと大坂城主の豊臣秀頼かそのブレーンが判断したのかも知れない。
造幣局に通じる川崎橋(左下)と今の大阪城

その4年後(1615年)大坂夏の陣(豊臣滅亡)のあと、大坂藩主となった松平忠明は、翌年から大坂の区画整理に着手、天満御堂天満別院のあった川崎の土地には東照宮を建立している。
江戸期の天満地図

後に家康を祀る東照宮の周辺は、大坂町奉行所の与力屋敷が軒を並べる与力町となり、大塩平八郎の居宅もここにあったことは良く知られている。
西側駐車場(元よみうりテレビ)から見た天満別院

従って、桜の通り抜けで有名な造幣局の土地は、豊臣時代には天満本願寺、江戸時代には東照宮と与力町、二つの時代の歴史遺産が埋まっている貴重な場所となっている。
真宗大谷派天満別院

現在の真宗大谷派天満別院は、豊臣時代の天満本願寺の土地ではなく、26年後の豊臣末期に移転した「佛照寺」(上の地図、天神と東照宮の間に仏照寺が載っている)の場所とされている。
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