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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



竜安寺の東側、若い大学生で一杯の立命館大学の裏にひっそりとあるのが足利尊氏の墓所としても知られる等持院で、臨済宗天龍寺派に属する寺である。



等持院は近くにある竜安寺や鹿苑寺金閣等の有名寺院に比べると拝観客が少なく、夢窓国師の作と伝わる広い庭園があり、ゆっくりとできる穴場的な寺院であった。



等持院の山門から庫裏に上がり、拝観料500円を支払って右側の方丈へ渡る廊下を進む。

廊下の突き当たりに巨大な達磨大師の顔が描かれていてビックリするが、これは臨済宗天竜寺派の関牧翁管長(1903~1991年)の筆という。



1341年足利尊氏は現在の京都市役所のすぐ西(柳馬場御池)に等持寺を建立し、その二年後の1343年、現在の等持院北町にも別院北等持寺を建立している。

1358年(延文3年)尊氏の死後、別院北等持寺は尊氏の墓所となり、戒名である等持院殿仁山妙義大居士からその名前を等持院と改称した。



足利幕府初代尊氏が創建したので、金閣、銀閣を含む京都の禅宗10刹の筆頭寺院とされ、足利歴代将軍の菩提寺となっている。

方丈西側の庭の中には、延文3年、等持院殿贈大相国一品仁山大居士と読める年号が彫り込まれた足利尊氏の墓が現存しているのが感動である。



但し、尊氏が大相国すなわち太政大臣を追贈されたのは死後23年後なので、この墓石は延文3年に設置されたものでは無さそうである。

又、墓の両側にある石灯籠は大正年間に寄進された新しいものであった。

その後、応仁の乱(1467~1477年)で柳馬場の本寺が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺になったという。

豊臣秀吉も等持院の歴史を尊重してか秀頼に建て直しを遺言したらしいが、その後も何度かの火災にかかり、1818年に再建されたものが現在まで残ったものである。



従って現在の方丈も1818年頃に、妙心寺塔頭の海福院の方丈(福島正則によって1616年年建立という古い建物)を移築したものといわれる。

方丈内部



今は当初よりも寺域は縮小し、本堂(方丈)、霊光殿、書院、庫裡、清漣亭だけが残っているが、縮小したとはいえ手入れの行き届いた広い庭がある。

庭にある遺髪塚



こここそ隠れた京都の観光名所と言えるのではなかろうか。


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