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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



現在の方丈は明治維新における混乱や、1921年マキノ省三がこの等持院境内に設立したマキノキネマ株式会社による映画撮影で一部破損されたらしい。



大正時代には、等持院山門をくぐると参道の西側部分にステージ1棟、倉庫、俳優部屋、事務所があり、阪東妻三郎などの時代劇スターが誕生し、衣笠貞之助監督がデビューしたという。

時代劇の撮影舞台として最高の場所である方丈では、役者同士の激しい太刀回りがあり、そのアクションで貴重な狩野派の襖絵を破損してしまったのであろう。



本堂の北、書院の東側に夢窓国師の作と伝えられるかなり広い庭園があるが、庭園のさらに北側は立命館大学のキャンパスで、高層の学舎が樹木の向こうに見えてしまうのが残念である。



後醍醐天皇、足利尊氏とも交流があった初代天竜寺管長夢窓国師は「苔寺」で知られる西芳寺、天龍寺、鎌倉の瑞泉寺など、多くの庭園の設計でも知られている。

茶室「清漣亭」は庭園北側の丘の上にあり、足利義政(1436~1490年)の好みであったと伝えられているので、等持院の創建当時からの茶室ではなかろうか。



1799年に描かれた等持院絵図には、現在の場所に既に清漣亭が描かれているが、今の清漣亭とは形が異なるので1818年に再建されたものらしい。



方丈の北にピンクの芙蓉の花が咲いていたので、花越しに見た芙蓉池の写真を記念に撮っておいた。



方丈から東側へ反り橋で繋がる霊光殿には、尊氏が日頃念持仏として信仰していた地蔵尊(伝弘法大師作)を本尊として、達磨大師と、夢窓国師の像を安置している。



その手前、一段下がった両側に足利歴代将軍像が徳川家康と共に安置され、すぐ近くから拝観できるのが素晴らしい。



初代等持院殿足利尊氏



当初の将軍像は応仁の乱等で焼失し、現在は江戸期の木造というが、足利15代230年の歴代将軍木造は見事である。

3代鹿苑院殿足利義満



福井県に生まれた作家水上勉氏は9歳の時、京都の禅宗寺院相国寺塔頭、瑞春院に小僧として修行に出され、その後等持院に移って修業し、その経験がのちに『雁の寺』、『金閣炎上』の執筆に生かされたという。




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