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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



1931年(昭和6年)、満州事変(柳条湖事件)が発生、日本軍(関東軍)土肥原賢二大佐(1883~1948年)は、抗日ゲリラを手引きして天津市に攻撃をしかけ、義和団事件以来30年ぶりに日本租界が戦場となったといいます。

 

日本租界の旧宮島街と淡路街の交差点付近

 

 

溥儀(1906~1967年)は、このどさくさにまぎれ、6年間住んだ天津租界を脱出、翌年建国された満州国皇帝への道を歩み始めていますので、天津は満州国の創設にも深く関係していたのです。

 

溥儀が住んでいた静園の入口

  

 

1933年(昭和8年)に日中の停戦協定が成立すると、日本軍の中国への強硬姿勢はさらに強まり、1935年(昭和10年)に天津から中国政府機関が撤退、冀東防共自治政府が設置されています。

 

静園内部の建物(1921年完成)

 

 

この日本軍の傀儡政権は、国民党政府の関税よりも大幅に低い関税を定めたことで、正規の関税を払わない日本商品(密輸品)が天津に殺到、天津日本租界の景気が一挙に跳ね上がったといいます。

 

 

1934年(昭和9年)、7千7百人だった天津の日本人人口は、1936年(昭和11年)に1万人を突破、翌年には1万6千人、以降も増加が続いています。

 

車道も歩道も狭い日本租界の山西路(明石街)

 

 

1939年(昭和14年)には、社員21万人(うち日本人3万5千人)といわれた国策鉄道会社「華北交通」の拠点が天津に置かれたことでさらに多数の日本人が送りこまれ、1940年に5万5千人を超えたといいます。

 

日本租界にあった公衆便所(扉の無いむき出しの大便器にしゃがんだ人の姿が外から丸見え)

 

 

1945年(昭和20年)8月15日まで、日本軍に占領されていた天津に連合軍の空襲や攻撃は無く、日本軍の武力を背景にした在留邦人は、軍関係者を除くと平穏な生活を楽しんでいたようです。

 

日本租界(左)とフランス租界(右)の境界、錦州道

 

 

しかし、終戦の知らせとともに、華北からの日本人引揚者が天津に溢れ、翌年天津在留者も財産を没収され、全員が着の身着のままで日本に送り返されたのです。

 

山西路(日本租界からフランス租界に入ると道路と歩道が広く、清潔な街並みとなります)

 

 

1911年(明治44年)頃から終戦までの34年間、日本軍の武力を背景とした日本租界の黄金時代があり、日本人は欧米列強と対等となったと考えていたようですが、現在天津に残る日本租界の環境は、欧米租界の環境と比べると貧弱そのものなのです。

 

日本租界の入り口にある武徳殿(日本軍によって設計され、1942年に完成した城のような建物)

 

 

現在の日本の住宅事情を欧米と比較するとき、天津租界の状況と酷似しているのではないでしょうか。

 

つづく

 

参考文献:・天津今昔招待席 田中良平著 ・天津史 天津地域史研究会



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