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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



靖国神社拝殿に向かって右側、能舞台のさらに奥に英霊の遺書や遺品、靖国神社に奉納された絵画など10万点もある収蔵品を展示した宝物館(遊就館)があるので紹介しましょう。

遊就館の遊就とは、荀子の勧学編「君子は居るに必ず郷をえらび、遊ぶに必ず士に就く」すなわち、高潔な人物(紳士)に交わり学ぶ(遊学する)ことが君子への道という言葉から取ったようです。

遊就館は、1878年(明治11年)に陸軍卿・山県有朋等により、幕末維新の官軍戦没者(祭神)の霊を慰め、そのゆかりの遺物を展示するための絵馬堂を兼ねた施設としてイタリア人の設計で1882年(明治15年)開館しますが関東大震災で被災、その後築地本願寺の設計者として有名な伊東忠太の設計で1932年(昭和7年)に再建されています。

戦災を免れて閉館していた遊就館は、1947年(昭和22年)から富国生命保険の「九段本社」として使用されていましたが、1980年(昭和55年)に富国生命保険が立ち退くにあたり、同社社長が靖国神社の経済的窮状を財界有力者に訴えたといいます。・・・大阪天保山砲台にあった大砲が玄関前に展示してありました。

これを契機として「靖国神社奉賛会」が発足し、1985年(昭和60年)7月13日に建物の改修が終わり、遊就館として再開。・・・玄関ホール内だけは、写真撮影が許可されていました。ゼロ戦

その後、展示スペースの不足から靖国神社創立百三十年記念事業の一環として本館改修と新館増築の工事が行なわれ、2002年(平成14年)7月13日から再公開されています。・・・タイから返還された泰緬鉄道の機関車

玄関ホールからエスカレーターで2階に上がり、館内を拝観しますが所要時間120分、90分、60分という3つの順路がマップに示されていました。・・・沖縄で発掘保存されていた旧陸軍の榴弾砲と加農(カノン)砲も

しかし、展示された資料は膨大で、じっくり拝観すると120分でも足らないほどでした。・・・加農(カノン)砲の砲身についた銃弾の痕。弾痕の横にある銘版には大阪陸軍造兵廠の文字がありました。

最も印象的だったのは「英霊のみこころにふれるゾーン」の「靖国の神々」というはがきの半分くらい英霊の顔写真、すべて姓名のあとに命(みこと・男性)、媛命(ひめのみこと・女性)と書かれていて、出雲大社の祭神「大国主命」と同じように、英霊が祭神となったことが判るようになっていました。・・・2階展示室へのエスカレーターから見たホール内部



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