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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



急降下すると最高時速390km以上というハヤブサの写真と一緒に、太平洋戦争中「隼」の愛称がついた飛行部隊、加藤隼戦闘隊について紹介しましょう。

1941年(昭和16年)4月、4代目戦隊長として飛行第64戦隊に着任したのが加藤建夫(19031942年)陸軍少佐です。第64戦隊は加藤がかつて中隊長を務めていた飛行第2大隊第1中隊など3個飛行中隊が合併して193881日に編成された飛行戦隊です。

19418月、加藤少佐指揮する第64戦隊は、新鋭の一式戦闘機(中島飛行機機製造)に機種改変するため日本に帰国して機体を受領、中国広東で猛訓練を行い、日米開戦直前の123日に広東から 2千数百kmを一気に飛行し仏印に進出しています。

「エンジンの音 轟々と 隼は往く 雲の果て」と始まる「加藤隼戦闘隊の歌」は、部隊の戦意高揚のため前年(19402月末・加藤建夫が隊長として就任する前)に南寧に派兵された第64飛行戦隊第1中隊で生まれ、すぐに「飛行第64戦隊歌」となった歌です。

その歌詞に出てくる「隼」とは、戦闘機をハヤブサに例えた愛称でしたが、太平洋戦争の緒戦において第64戦隊が大活躍したため、19423、陸軍航空本部は、その歌詞の「隼」を「一式戦闘機の公式の愛称」に採用、加藤少佐の飛行第64戦隊は加藤隼戦闘隊と呼ばれるようになったのです。

太平洋戦争開戦後、第64戦隊は各地の航空撃滅戦において連合軍を圧倒、加藤自身も積極的に一式戦闘機に搭乗し戦隊長として空中指揮・戦闘に活躍し、南方作戦の成功に大きく貢献し、中佐に昇進しています。

しかし19425月、第64戦隊の駐屯する飛行場を敵機が来襲した際、迎撃した加藤隊長機は腹部に集中射を浴びて発火、加藤中佐はベンガル湾に突入して自爆していますので第64戦隊長としての期間は僅か11月余りだけでした。

戦死した加藤中佐は、寺内寿一南方軍総司令官からの個人感状、さらに帝国陸軍初となる二階級特進(陸軍少将)、功二級金鵄勲章を受勲し「軍神」となっています。

戦死から2年後の1944年には山本嘉次郎が監督を務めた東宝映画『加藤隼戦闘隊』が陸軍省後援の国民映画として公開されて大ヒット、挿入歌「加藤隼戦闘隊の歌」も一挙に全国に広まっています。



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