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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



今から1300年も昔、都鳥と呼ばれていたユリカモメは「舟競ふ 堀江の川の 水際に 来居つつ鳴くは 都鳥かも」と萬葉集に出てきます。(作者は三十六歌仙の一人で聖武、孝謙天皇時代の大伴家持718~785年)

この和歌にある都鳥は、平安時代の伊勢物語に「白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる鳥を都鳥」と、あることからユリカモメ(全長40cm)のことでしょう。(鴫を代表するチュウシャクシギは42cm)

現在「ミヤコドリ」と呼ばれるチドリ目ミヤコドリ科のミヤコドリは、チュウシャクシギより大きい全長45cm。海岸部に生息していて内陸部の奈良や京都市内では見ることは無いので、都鳥はユリカモメのことでしょう。

さて、日本書紀仁徳紀に「天皇は(洪水や高潮を防ぐため)難波宮の北の野に水路を掘削させ、南の(大和川の)水を西の海へ排水できるようにし、堀江と名付けた」という記述があります。

当時の難波高津宮は上町台地上にあり、その東側にあった河内湖の水は、上町台地の北の狭くて浅い砂州(長柄砂州)を通って東の海に排水されていました。

奈良県からの大河(大和川)が流れ込む河内湖の排水は、常に長柄砂州が妨げ、しばしば洪水や高潮の原因となっていたので、仁徳天皇が水路(堀)を掘削してその地名を堀江としたのでしょう。

日本書紀にあり、大伴家持が詠んだ堀江は、伝説上の存在ではなく、実際に5世紀前期に築造されたものと考えられていて、築造したのが仁徳天皇だったのかについては、肯定派と懐疑派で見解が分かれているそうです。

当時の堀江は、大阪城のすぐ北の天満川から大川を通って中之島の辺りで海に出るルートが推定されていて、大阪市西区の地名「堀江」とは位置が異なります。

現在でも、大阪城の北を流れる天満川や大川、土佐堀川に多数のユリカモメが渡来してきますが、奈良時代にもそういう光景があって、ここから船で九州に赴任した大伴家持もそのユリカモメを見たのでしょうね。



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