当時、日本海汽船(株)にも満州丸という船があったので、満州丸という船は2隻あったようである。
日本海汽船所属の満州丸3053トンは、昭和19年9月9日、台湾の高雄を出てマニラ向け航行中、バシー海峡サブタン島西方において、右舷三番艙および機関室に魚雷を受けて沈没している。

その沈没の際には兵883名、船員29名という多くの戦没者を出している。
陸軍徴用船であった大連汽船の満州丸は、操舵手としての父の第2航海中であり、昭和19年9月頃に丁度日本を出航したようである。
父の満州丸は、南方に向けて物資を運んだ後、スマトラ島で軍需物資を積み、昭和20年始めには香港に寄航している。
戦争が厳しくなったせいか、香港で2,3か月足止めされ、昭和20年3月になってようやく日本に向けて出航している。
途中、揚子江の南の海上で他の船に積荷の半分を移したとメモに書いてあったが、制空権を失い軍需物資を積んだ船が次々と撃沈される戦時下で、物資を失う危険を分散させたのであろう。
昭和20年3月と言えば米軍の沖縄上陸作戦が始まった時期であり、半分以上日本に帰れないという覚悟で出航したのであろう。
満州丸は米軍が制空権、制海権を持つ東シナ海を奇跡的に無事に通過し、5月上旬になってから門司港に入港している。
沖縄上陸作戦中の米軍で一杯の東シナ海をよく無事に通過できたものであるが、米軍は沖縄作戦に集中していたために、東シナ海の貨物船まで手が回らなかったのかもしれない。

危険な東シナ海を無事渡りきった満州丸は、門司を出航して大分県国東半島の北、姫島灯台を南西に見る地点に回航していた時、米軍の機雷に触れてあっけなく沈没している。

松井氏のサイトによれば、大連汽船の満州丸は5266トン、大正10年3月、横浜内田造船で製造された貨物船とあり、昭和20年5月5日瀬戸内海姫島沖で触雷沈没とちゃんと記録されていた。

死者は出なかったようなので、5266トンもあった満州丸は、機雷に触れても沈没するまでかなり時間があったのであろう。
満州丸沈没の後、隠岐に一旦帰郷し、終戦までの3ヶ月間、一度乗船の通知があったらしいが、終戦が近いという状況を判断して乗船しなかったらしい。
父の故郷

メモはここで終わっているが、18歳の若者が26歳になる、昭和12年から20年までの戦時をどう生きてきたかという記録であった。
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一般的に船員の生き残り組みは悪夢を思い出したくないので口を閉じていますが、それでは海の藻屑となった仲間の慟哭に応えることができないので私も拙い手記を編み、あわせてUrlでも公開していますので申し添えます。
こんにちは
戦時中の死亡率は、軍人よりも船員の方が圧倒的に高かったというデーターがあります。
悲惨な戦争の記録を、ぜひ後世に伝えて下さい。
祖父が大連汽船の満州丸に
乗っていたと言ったので
調べたら
ここに行きつきました。
当時15歳だったらしく
沈没の時に身だけだったので
満州丸に乗っていた証明??
が欲しいみたいです。
↑ただ単に満州丸について
知りたいだけかも知れません…笑
なので満州丸についてもっと
詳しく知りたいのですが
どこで?調べたらいいのでしょうか?
よかったら教えてください
こんにちは
満州丸についての詳しい資料は、私も欲しいのですが
なにせ65年も前のことなので・・・
何か情報があれば教えてください。
門司港に残る旧大連航路埠頭について調べていて、ここへ来ました。
明治36年生まれの亡祖父が大連汽船で船長でした。
当時の写真はアルバムに残っています。
19年に門司港に転勤となり、東邦海運に勤めました。戦中、陸軍輸送船に乗っていたことは晩年になって知りました。
そして、海に沈んでいった仲間のためにお経を読んでいたと知ったのは最近です。
当時のことを知る方はほとんどいなくなってしまったと思います。祖父母にもっと色んなことを聞いておけばよかったと悔やまれます。
こんばんは
アルバムを大切にして、次の世代に伝えて下さい。
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