遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   阿字ヶ浦で波音を聴きながら浜辺を彷徨いうつくしいものをひろった。それは波に洗われ砂や小石に磨かれたガラスの破片だった。カドがとれてまぁるくなって微細なキズが水色や緑のガラスを霜がおりたようにスモーキーにしていた。



   浜には骨のように白くてなめらかな手触りの貝のかけらも落ちていて、わたしはそれもひろいあつめたけれど、娘たちは競って宝石のようなガラス玉をさがしつづけた。砂地を這うようにはまゆうがらっぱのような花を咲かせ、はまなすは甘く匂う。あわい空は雲ひとつなかった。



   自然はうつくしいけれど、ひとの手にかかったものを自然が仕上げてくれたのはもっときれいだ...と娘はいって緑のまるいガラスを陽にかざした。...なるほど純な魂はうつくしいけれど、傷ついて傷ついて磨かれてゆくのなら、それはもっとうつくしいかもしれない...と思ってみたりする。

   語りはおのずとひととなりが出る。迷いも荒ぶる気持ちも手練れのわざもういういしさも知識も格も...それだからおもしろい。どの語りもどの語りもその意味で完結している。”今”がそこにある。”今”を永遠につなげようとするとき、祈りが生まれる。祈りに混じり気がないほどつながる糸は太くなる。

   病も苦しみも哀しみもわけあって生じる。それはわたしたちが気づくために贈られたギフトなのだ。磨かれるチャンスをいただいたのである。心をしずめて考えれば輝くばかりの賜物...なのだが、ひとは...いやわたしはイタイのは好きではない。すべてイエスとうべなうにはプライドが高すぎるし..。それでなかなか磨かれないのである。

   もっと楽な方法はないかなと考えてみる。語り手とはシャーマンの要素を多かれ少なかれ持つ。そもそも古代語り手はシャーマンだったのだから。そこで若干のリスクは省みず、つながるための試みをしている。自分の内、もっと内の内、底の底....その底はひっくりかえって天につながる。ひとの手を借りないでしてみる。

   あわい空のしたで 長い車の道中で 意識を内に.... 彼方に.....ほんのすこし変化がある。イタミは確かに消える。筑波のお山から波動がくる。眼で見えることは置いて ひとを感じてみる。するとやはらかい とてもちかい....そうか、ものごころついて以来ずっとつづけてきた客観視、ものごとを知る、自他との違いをまなぶことには弊害もあったのだ。違いをあげる、評価する、批評する。

   朝 おはなし会があった。いちばんまえで聴いていたN君のいちぶがこだまのようにわたしの中にいて、もの問いたげだ。午後 うたをたのしんだカタリカタリのみんなのいちぶもわたしのなかにいてなんだか不思議。わたしはここでたいせつな家族やカタリカタリのみんなや友人や社員さんたちを自分のなかに感じるように生きてゆこう。

   だれか くるしんでいたり困っていたら いっしょに感じよう。わたしにできることをしよう。あたたかい波が幾重にも幾重にもおしよせてくる。砂地にしみこみ 侵すとみえて沁み入りそっと抱きしめ磨いてゆく.....わたしの手が他者にすること...わたしの口が他者に語ることがいつもゆるされて在るように。



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