遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 

手紙  


   友人からTELがきた。なにをしてるの? あなたには充分過ぎるほどわかっているはず、ことばで実証しようとする必要がこれ以上あるのか なにをぐずぐず...のような詰問で たしかにそれはそうだと思いつつ やはり必要があるからだという気持ちは否めない。

   この二週間バラバラになっていたきっかけは、ヒーラー養成の研修に行ったことからだ。いままでのわざとの差 受けたことによる身体的不調も原因だし 資金繰り上 また経営上の決断 家庭的な問題が いつものなにかをはじめるときのようにわっと押し寄せてきた。

   だが、一番ひっかかっていたのは、テクストにあった ”ワンネスを選ぶか集合的無意識をえらぶかふたつにひとつ”という一節だったように思う。ワンネスとは....梵我一如のこと?....梵我一如とは、梵(ブラフマン:宇宙)と我(アートマン:個人)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。不二一元論ともいう。....とある。(このヒーリングはアーユルヴェーダと真言密教の流れを汲むもののようだった)

   この梵は神を意味するのではなく、生命の源であり、我とは真我であって、ふつうの状態の人間をさすものではない。集合的無意識とは人各々の深層無意識は人類全体の心の奥底で1つに繋がっていて集合的無意識を形成し、それがさらに宇宙的な普遍的集合的無意識に同調するというユングの考え方である。

   如しとは...のようなの意味である。ゆえにわたしは梵我一如=集合的無意識とまでいかないまでも梵我一如≒集合的無意識と考えていた。そこで葛藤が生じたのである。それではワンネスのわたしの解釈が違うのか...ワンネスとはひとつになる...とある。....このままの状態でひとつになることができるだろうか。今のままで? ひとつになろうとする試み..というのならわかるのだけれど。テクストの書き手から直にうかがったわけではないから、真意はわからないが。

   梵我一如=集合的無意識が問題になるのはわたしにとって語ることの根がまさにそこにあるからなのだ。語ることは喜びであり、自分のささやかな使命のひとつと考えているけれど、語ることが目的ではない。たとえば目的のためによりよいと思う手立てがあってそれに見合うわざを自分が持っているのなら、語りでなくそちらへ向かうかもしれない。乗り物ではない。目的地へ近づくことがたいせつである。

   目的とは...自らを癒し他者を癒す...自ら気付きつつ気づくように示唆する....梵我一如の我...真我に向かうこと...自分ひとりではなくて。そのために個の無意識の領域、集合的無意識の領域に響く語りがしたいのである。

   古代ギリシャでは癒しとは病人に向かってではなく、人間に向かってなされた。自らを癒したい人々は神殿に赴いた。沐浴し身を清め、哲学者と語り、マッサージを受け、自分とおなじように悩むひとびとが出るギリシャ悲劇を観てカタルシスを感じ、医師から診断を受け、薬をもらい 神殿で眠り神から啓示を受けた。これこそほんとうのホリスティック(まるごと)医療である。

   現代ではそれがバラバラにされている。ひとは哲学書を読み、温泉に行き、マッサージを受け、週末は映画を観たりして病気になれば病院に行く。語り手も一端を担う。子どもたちのおはなし会であろうとデイケアであろうと聴き手が喜びを感じ、あるいは自分の人生と重ね合わせ、なにかに気付くのであればそれは癒し+αすなわち再生であり、芸術とは本来そういうものであったはずだ。

   萩尾望都が2006年にSF大賞を受賞したバルバラ異界を読んだ。このことはもうひとつのブログで書きかけたのだが、今日のテーマにつながるので書いておきたい。アオバはいう。...わたしたちは生き返ってひとつになれるのよ....一つが全部に...苦しみも悲しみも飢えも死もなく....永遠に一つの生命体になれる....キリヤはいう....ひとつだって...永遠に?...そんなのおかしい...オレはオレだ....あなたはわたしでわたしはあなたなんていやだ....(原文のままではない)

   我の枠から解き放たれておおいなる波にのみこまれる至福を知らないわけではない。没我のなかで二度体験したことがある。...だがそれには個を我をまっとうしなければならないのだと考える。それはまだわたしが未熟であるからかもしれないが。とことん行けるところまで行きたい...もっと見詰めて葛藤して味わって愛して苦しんでそれからでいい、いつかゆだねられるようになるだろう。怒ったり悲しんだりすることはむだではないのだ。

   そういうわけで わたしは彷徨いながら見つけながら歩く。もうすこしでたいせつななにかが見えそうな気がする。語りはじめると自然にトランス状態になることが多いのだけれど、それを強化できないか知りたい。魂をもっときれいにすればいいのだとわかってはいるが、もっと簡単な方法があるのではという気持ちも捨てきれない。なによりもっと自由になりたい。

   さまざまな出会いとまた別れがあった。それぞれに意味があった。あした行きたい場所がある。やってみたいことがある。月曜は小学校で語る。いつもこれっきりと思って語りたい。TELをありがとう!心にかけて行動にうつせるあなたはゆたかなひとです。必要なときお日様があなたのうえにほほ笑むように、風が吹きわたるように..。


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