遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



     『私たちは意識して言葉(セリフ)を読みます。意識的でなく無意識に画像を視覚として読みます。
マンガはこの二重性として読んで見るわけですが、「トーマの心臓」で、萩尾望都さんはこの意識と無意識を微細に融合させています。.......「物語」と少し違うところでの関心があります。そこのところで少しお話ができたら嬉しいのですが。』

      らんらんさんのコメントにわたしは固まってしまいました。わたしは意識的に漫画を読むことはあまりないからです。つまり、意識させられる(客観的に読まざるを得ない)漫画は自分にとって相性のいい漫画家ではありません。(この辺は語りにも通じる)らんらんさんはひょっとして 男性!?と思ってしまいました。

      けれども そこからあたるのもおもしろい。それで あした 語り継ぐ戦争と平和の練習があることなどわすれて、(ともかく脚本はつくりなおしたし あしたのスケジュールも組んだし あとは自分のパート「焼き場の少年」の練習だけだといいわけしつつ) トーマの心臓をひっぱりだして読んだところ すっかり ひきこまれてしまいました。

     トーマの心臓のせりふの一部 1ページ分を書き抜いてみます。

カシッ  皿に本がぶつかる音

オスカー おっと!
     なにやってんだ やめろ みんな!
先生Ⅰ  君たち! 席を立たないで!!
先生Ⅱ  席を

バチャ! 皿にスプーンがぶつかる音

生徒Ⅰ  この! なんのうらみが
生徒Ⅱ  そこにいるのがわるい!
オスカー こらーっ!やめろったら! バカ!
オスカー やめ

パシャッ オスカーの顔に飛んできた皿からスープがはね 髪と顔をぬらす

生徒Ⅰ  ......あ....
     オスカー.....あの

ズイ   オスカー 生徒Ⅰをおしのける

ガターン! 生徒たち なぐりあい
ボカ!

エーリク ひとがおとなしくしていれば このうっ
ボカ!
(小学館 フラワーコミクス)

寮を併設したギムナジウムの喧騒。せりふの奔放な生き生きしたリズム 登場人物はコマから飛び出さんばかりで 少しもじっとしていません。この臨場感に読むものは観応し 読者に考えるすきなど与えないのです。



それでは 大島弓子の 野イバラ荘園から やはり 1ページ分 抜書きしてみることにしましょう。

バンッ ドアをあける音

るか   わぁー 勉さん!! みんな!! いらっしゃあ.....
勉    しばらく るか!! またきたよ この気まぐれな妹君はふろくだ。

るか  (ひときわ青白いほお にじむような目のふち うすく笑ったそこだけがぐみのようなくちびる....どういうわけか この荘園を忌み嫌い 彼女が他のいとこたちにまじって夏季休暇を過ごすことはかつてないことだった。-----しばらく見ないうちになんてきれいになったのだろう なんて.... それまで まったく気にしてなかったことだけど....それにくらべて...わたしは くらべると なにひとつ美しくなっていないのだろう 去年とおなじょそばかすのかず 日に焼けたあから.......妹とはいえ ..こんなひとと毎日をともにしているのだったら 勉さんはわたしなぞ さぞ味気なく見えるだろう)

勉    ああ るか 芙蓉にあいてる部屋あったら
るか   ああっ あ....っ はいっ はいっ
芙蓉   クッ(笑う)  

(朝日ソノラマ)

これは冒頭の1ページですが わたしたちはすでにるかの心のなかに入り込んでいます。彼女の抱えるコンプレックス 勉さんへの想い 美しく気まぐれな従妹芙蓉への屈折した気持ち......

どちらも ほぼ同じ時代の少女漫画の傑作ですが 同じ1ページにこめる文字の量、台詞とモノローグとの占める割合 はかなりちがうように思います。後年 萩尾作品が舞台化されることが多く 大島作品が 小説家に影響を与え 映像化されることが多かったこともわかるような気がしますね。

     同時代のごくふつうの漫画は探し出さないと出てこないし わたしは自分のめがねにかなった作品しか していないので 比較のしようがないのですが この二作品は方法は違えど らんらんさんのおっしゃる台詞と画像 意識と無意識の領域を融合する作品ではないでしょうか。もちろん トーマの心臓はより感覚的 直感的であり 野イバラ荘園はことばから喚起されるものがより多かったのですが......。

     物語の世界に溶け込む・我を忘れる それこそが 漫画にせよ 小説にせよ 語りにせよ 受け取る側の醍醐味です。現実を忘れたいからひとは夢中になるのかもしれません。少なくともわたしは批評しながら読んだり聴いたり 見たりするより ものがたり世界に没頭したい。読み手をものがたりに引きずり込む 漫画家 語りべ 映像作家はそのためにしのぎを削るのです。

     受け取る側をひきつけるのは ものがたりそのものの力であり もうひとつは作者がものがたりに抱いている情熱でしょう。稿料のためだけでなく どうしても伝えたいものがあるのです。トーマの心臓連載途中で萩尾望都さんは読者にアンケートの評価が低いらしいこと このままでは連載が打ち切られてしまうかもしれないこと 応援がほしいことを漫画の中で訴えていました。

     では 読み手はものがたりからなにを受け取るのか。ただ物語の展開を待ち望んでいるだけでなく 読み手の無意識の領域でも複雑な動きがあるのではないでしょうか。深層意識の膨大な過去の記憶にヒットして 思考がうごいてゆく 読み手自身の感情の記憶 嫉妬 やるせなさ 哀しみ 葛藤 とかさなる......ものがたりは重層的にダイナミックに動いてゆく。


     らんらんさん ごめんなさい。結局 ものがたりに行き着いてしまいました。トーマの心臓 はひとりの少年が精神的な死から救われるものがたり そこには死と愛がありました。しみじみ 萩尾さんはストーリーテラーだと思います。生と死と再生 ものがたりの古からの永遠のテーマが子どもを相手にした商業誌で堂々と語られていた時代に生きたことをわたしはうれしく思います。そこには少年たちだけでなく その奥にオスカーの父 校長 またユーリ・シドという三人の男の生 愛と死そして癒しと再生が語られるのです。

     野イバラ荘園の場合は 従妹たち五人のひと夏のできごとから 一族の秘密があきらかにされ 死によってあがなわれるのですが これも やはり 生と死と愛 そして再生を内包しています。 なんだか タイトルがちょっとずれたみたいですね。ものがたり 死と愛と再生 萩尾望都 大島弓子 かな........

     



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コメント
 
 
 
「トーマの心臓」の時間性のなかにいる (らんらん)
2011-02-03 06:57:17
読めてよかった!
物語を語って頂いて嬉しいです。
引き込まれてしまいました(笑)。

私の関心はどうしても絵を描く仕事のため
言葉にならない、画像や線に傾くようです。

大好きなマンガ作品の時間と空間の中にいるとき、
実際の外界の自分は、現実の空間と時間に存在し、
身体を静止させ、
目と手によってマンガを読んでいるだけですが、
<表現された自己の存在>として、
マンガの世界の中に、ハッキリと存在していると
実感できます。
すくなくとも私は実感できます。
つまり「トーマの心臓」を読みながら
『あ、いま私は「トーマの心臓」の
時間の中にいるな』と感じます。
このとき、
内面の自己意識(内的意識の時間性)ともちがうし、
外側の時間(自然的時間性)とも違った
時間性の中にいることは間違いありません。

 
 
 
大島弓子という初源 (らんらん)
2011-02-03 09:47:02
大島弓子は掛け値なしのストーリーテラですし、
その作品も萩尾望都に勝るとも劣りません
巨大な存在ですね。

大島弓子が少女漫画のコマ割りを変えたと
指摘しているのは竹宮恵子(竹宮恵子のマンガ教室)だけですね。

萩尾さんも山岸涼子も言語の位相化(言語の微分化)をして内面の複雑な心理描写を可能にしましたが、
大島弓子は言語の位相化(差異化)をすれば
いくらでもできるはずの複雑な物語を
紡いでいるのに、それを一次元の主人公の独白に
封じ込めて表現しています。
その力量は抜群のものがあります。
読んでいるこちら側は、
その膨大な印象を心理的に受け取っている
わけですから、読むこちら側でいくらでも
想像力を膨らませられます。
これは言えば、物語の初源の形なんですね。
 
 
 
らんらんさん (luca)
2011-02-03 19:30:19
コメントをよく咀嚼して お返事を書きたいのですが もうでかけねばなりません。あさって頃の帰宅になります。コメント ありがとうございました。
 
 
 
私たちの日々 (らんらん)
2011-02-04 07:35:21
通信の技術が進めば、
その伝達のスピードはいやでも速められます。
このスピードに、個別な存在として
それぞれがもつ、多様な時間が飲み込まれ、
消されていきます。
ゆっくりとしか伝えられないものもあれば、
瞬時に届くものもあります。
逆立ちしても、そうそう速くには
伝えきれないものがあり続けるからこそ、
私たちの日々があるともいえますね。
 
 
 
そうですね。 (luca)
2011-02-05 11:58:57
伝えることの原点はいったいなんだろう。萩尾望都さん 大島弓子さん 他の漫画家たち はなぜ描き続けたのか 書かずにいられなかったのか

そして わたしはなぜ このブログを発信しつづけているのだろう.......

人間には共有したいという強い願望があります。ひとつになりたい.....それはもともと わたしたちが
おなじ坩堝のなかにいた おなじ源のなかにいた記憶を持ち それだから 確かめずにはおれなくて さまざまな方法で 試みつづけるのだ......とも思われるのです。

世界のなかでたったひとり浮遊している孤の存在ではなく ひとつのゆたかなものに抱かれ一体となっていた記憶を呼び戻したいという 幼児が母を求めるにも似た 希求のようにも おもわれます。

けれど それだけでなく そこになにがし 崇高なものがひとしずく 含まれている。

マスコミが巨大なものに奪われた今 わたしたちは自分たちの肉声でたしかめあうという 伝えることの原点に戻らねばならないのかもしれません。

わたしは 大昔 漫画家になりたかったときがありました。10年前 語りをはじめたのは 語っていて世界とひとつになる 世界の秘密をこの手につかむような一瞬が あったからでした。語りは秘儀でした。今 語っているのは ひとつには伝えなければならない伝えたいものがあるからであり 語ることが大いなるものとわたしのこの世での契約のあかしであるからです。そのような あかし は気づくにせよ気づかずにいるにせよ だれもが持っているのではないでしょうか。与えられたものはそれぞれ ちがうにせよ。

このブログも細胞のひとつ ひとしずくの水であるわたしが どうしても 人間というおおきな海にむかって 投げかけたい 危急を知らせたいという 全体としての人間の本能のあらわれであるのでしょう。警鐘を鳴らしているひとは大勢おられます。

ひとりひとりは孤立している しかし種としての存続の危機に気づきはじめたひとたちがいる。 人間が まだ存続できる能力...チカラ・カノウセイを持っているなら ひとびとは変わろうとするでしょうし 立ち上がるのだろうと思います。

 
 
 
カタツムリ (らんらん)
2011-02-05 16:04:30
あるカタツムリが自分の背中に
悲しみを背負っているのではないかと思い始めて、
別なカタツムリに聞きに行きます。
すると別なカタツムリは、
それは自分にもあるというのです。
カタツムリはそうだろうかと思って、
また別なカタツムリのところに行きます。
答えは同じでした。


自分が言葉を呑んだり折ったり、
ためらったりしているのは、
それが遅れているからといったことではなくて、
本来言葉というものは
人それぞれつまずいたものではないか
という思い。
整理されたのが言葉でなく、
つまずきそれ自体が
その人の言葉なのではないか、
といえばいいだろうか。
 
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