コメント
 
 
 
「トーマの心臓」の時間性のなかにいる (らんらん)
2011-02-03 06:57:17
読めてよかった!
物語を語って頂いて嬉しいです。
引き込まれてしまいました(笑)。

私の関心はどうしても絵を描く仕事のため
言葉にならない、画像や線に傾くようです。

大好きなマンガ作品の時間と空間の中にいるとき、
実際の外界の自分は、現実の空間と時間に存在し、
身体を静止させ、
目と手によってマンガを読んでいるだけですが、
<表現された自己の存在>として、
マンガの世界の中に、ハッキリと存在していると
実感できます。
すくなくとも私は実感できます。
つまり「トーマの心臓」を読みながら
『あ、いま私は「トーマの心臓」の
時間の中にいるな』と感じます。
このとき、
内面の自己意識(内的意識の時間性)ともちがうし、
外側の時間(自然的時間性)とも違った
時間性の中にいることは間違いありません。

 
 
 
大島弓子という初源 (らんらん)
2011-02-03 09:47:02
大島弓子は掛け値なしのストーリーテラですし、
その作品も萩尾望都に勝るとも劣りません
巨大な存在ですね。

大島弓子が少女漫画のコマ割りを変えたと
指摘しているのは竹宮恵子(竹宮恵子のマンガ教室)だけですね。

萩尾さんも山岸涼子も言語の位相化(言語の微分化)をして内面の複雑な心理描写を可能にしましたが、
大島弓子は言語の位相化(差異化)をすれば
いくらでもできるはずの複雑な物語を
紡いでいるのに、それを一次元の主人公の独白に
封じ込めて表現しています。
その力量は抜群のものがあります。
読んでいるこちら側は、
その膨大な印象を心理的に受け取っている
わけですから、読むこちら側でいくらでも
想像力を膨らませられます。
これは言えば、物語の初源の形なんですね。
 
 
 
らんらんさん (luca)
2011-02-03 19:30:19
コメントをよく咀嚼して お返事を書きたいのですが もうでかけねばなりません。あさって頃の帰宅になります。コメント ありがとうございました。
 
 
 
私たちの日々 (らんらん)
2011-02-04 07:35:21
通信の技術が進めば、
その伝達のスピードはいやでも速められます。
このスピードに、個別な存在として
それぞれがもつ、多様な時間が飲み込まれ、
消されていきます。
ゆっくりとしか伝えられないものもあれば、
瞬時に届くものもあります。
逆立ちしても、そうそう速くには
伝えきれないものがあり続けるからこそ、
私たちの日々があるともいえますね。
 
 
 
そうですね。 (luca)
2011-02-05 11:58:57
伝えることの原点はいったいなんだろう。萩尾望都さん 大島弓子さん 他の漫画家たち はなぜ描き続けたのか 書かずにいられなかったのか

そして わたしはなぜ このブログを発信しつづけているのだろう.......

人間には共有したいという強い願望があります。ひとつになりたい.....それはもともと わたしたちが
おなじ坩堝のなかにいた おなじ源のなかにいた記憶を持ち それだから 確かめずにはおれなくて さまざまな方法で 試みつづけるのだ......とも思われるのです。

世界のなかでたったひとり浮遊している孤の存在ではなく ひとつのゆたかなものに抱かれ一体となっていた記憶を呼び戻したいという 幼児が母を求めるにも似た 希求のようにも おもわれます。

けれど それだけでなく そこになにがし 崇高なものがひとしずく 含まれている。

マスコミが巨大なものに奪われた今 わたしたちは自分たちの肉声でたしかめあうという 伝えることの原点に戻らねばならないのかもしれません。

わたしは 大昔 漫画家になりたかったときがありました。10年前 語りをはじめたのは 語っていて世界とひとつになる 世界の秘密をこの手につかむような一瞬が あったからでした。語りは秘儀でした。今 語っているのは ひとつには伝えなければならない伝えたいものがあるからであり 語ることが大いなるものとわたしのこの世での契約のあかしであるからです。そのような あかし は気づくにせよ気づかずにいるにせよ だれもが持っているのではないでしょうか。与えられたものはそれぞれ ちがうにせよ。

このブログも細胞のひとつ ひとしずくの水であるわたしが どうしても 人間というおおきな海にむかって 投げかけたい 危急を知らせたいという 全体としての人間の本能のあらわれであるのでしょう。警鐘を鳴らしているひとは大勢おられます。

ひとりひとりは孤立している しかし種としての存続の危機に気づきはじめたひとたちがいる。 人間が まだ存続できる能力...チカラ・カノウセイを持っているなら ひとびとは変わろうとするでしょうし 立ち上がるのだろうと思います。

 
 
 
カタツムリ (らんらん)
2011-02-05 16:04:30
あるカタツムリが自分の背中に
悲しみを背負っているのではないかと思い始めて、
別なカタツムリに聞きに行きます。
すると別なカタツムリは、
それは自分にもあるというのです。
カタツムリはそうだろうかと思って、
また別なカタツムリのところに行きます。
答えは同じでした。


自分が言葉を呑んだり折ったり、
ためらったりしているのは、
それが遅れているからといったことではなくて、
本来言葉というものは
人それぞれつまずいたものではないか
という思い。
整理されたのが言葉でなく、
つまずきそれ自体が
その人の言葉なのではないか、
といえばいいだろうか。
 
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