尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『八代目正蔵戦中日記』を読むー戦時下の寄席と東京

2022年12月31日 22時49分55秒 | 〃 (さまざまな本)
 そうそう家にいるだけも退屈するので、ちょっと前にスカイツリータウンにある三省堂書店に行った。そこで文庫本の棚を何気なく見ていたら、中公文庫の『八代目正蔵戦中日記』という本が目に飛び込んできた。そういう本があることは知っていたけど、中公文庫に入っているのは気付かなかった。もともとは2014年に青蛙房から出た本で、2022年7月に文庫化された。毎月チェックしているはずなのに頭の中をスルーしちゃうこともあるのだな。

 内容的には要するに、1941年から1945年にかけての日記である。その間の東京の寄席の様子、戦局が次第に厳しさをまし暮らしも行き詰まってゆく状況が率直に綴られている。台東区(当時は下谷区)の稲荷町(現・東上野)の長屋に住んで、地区の防空団などの雑務も丹念に担当している。変な話だが、「汲み取り」も自分でするようになった。トイレは当時水洗ではなく「汲み取り式」で、肥料として貴重な資源だったが、人手不足で来ないから自分でやっている。そんなことは書き残されてないと判らない。
(八代目正蔵)
 八代目林家正蔵(1895~1982)は昭和の大名人の一人だが、当時は5代目蝶花楼馬楽(ちょうかろう・ばらく)だった。1950年に一代限りで8代目林家正蔵を襲名したが、1980年に林家三平(7代目林家正蔵の息子)が亡くなった後で名跡を返還した。最晩年は林家彦六を名乗って2年間活動した。従って「八代目正蔵」は「戦中」にはいなかったわけだが、まあ「林家正蔵」が一番通りが良いのも違いない。新宿末廣亭や人形町末廣(1970年閉館)などに良く出てるが、何故か上野鈴本に呼ばれないことが多く日記に憤懣を書いている。東宝名人会にもよく出ていた他、四谷の「喜よし」というところに度々出演している。

 しかし、だんだん慰問が多くなり中国へも行っているが、その間は日記がないので詳細は判らない。群馬や新潟などの大工場にも呼ばれて出掛けている。客の人数や収入なども記録されているので貴重だ。戦時下の貴重な娯楽として客も入っているが、空襲警報が頻発され実際に爆撃されるようになると、とてもじゃないが寄席はやっていられない。そして東京大空襲になるが、何故か下町一帯が焼けた中で馬楽の家は焼けずに残っている。その空襲で6代目一竜斎貞山が亡くなり、隅田川で見つかった遺体を馬楽などで日暮里の火葬場に運んでいく。そんなことがあったのか。

 8代目林家正蔵はすぐカッとなる気質だったらしい。落語研究家正岡容(まさおか・いるる)の巣鴨の家に良く出掛けているが、時に大げんかする。正岡が多忙あるいは病気で会えなかったりすると、桂文楽なら会うのに自分は軽視されていると思う。何度も不和になるが、誰かが仲を取り持ってくれる。そんな様子が率直に書かれているのも芸能史的に貴重だろう。文楽や志ん生、円生など大名人が出て来るが、悪口も書いてある。皆亡くなっているが、唯一原本刊行時(2014年)に三遊亭金馬(後金翁、2022年8月死去)が存命で、本を届けたところ大変喜ばれたという。

 晩年には共産党の支持者として知られていたから、もしかして戦時中には「抵抗」の気持ちがあったのかと思ったら、そんなものは感じられなかった。普通の庶民であり、皇軍勝利を信じ、祈っているだけ。子どもが徴用に取られ、やがて下の子は疎開に行く。そんな様子に一喜一憂している。誤報として有名な「台湾沖海戦の大勝利」も素直に大本営発表を信じて喜んでいる。どんどん物資不足になり、本土空襲も行われるようになるが、戦局に疑問を持つ様子は見られない。まあ、内心思っていても書けないだろうが、そういう感じでもない。そこら辺が「庶民の歴史」というものなんだろう。

 僕は若い頃は寄席に行ってなかったから、この人をナマで聞いたことはない。昔真木悠介(見田宗介)さんの講座に出たとき、若き日の宮城聰君が林家正蔵の追っかけをしてると自己紹介したのを聞いて驚いた思い出があるぐらい。なお、八代目正蔵の一番弟子が春風亭柳朝を名乗り、その弟子が春風亭小朝である。春風亭ぴっかり☆が蝶花楼桃花を襲名したのは、小朝が大師匠の旧名を継がせたのである。「蝶花亭」という亭号は3年ぶりに復活という。
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