尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ロシアはなぜファッショ化したのかーウクライナ侵攻1年②

2023年02月21日 23時09分11秒 |  〃  (国際問題)
 ロシアは「特別軍事行動」開始以来、「ウクライナの非ナチ化」というスローガンを掲げた。そのプロパガンダを真に受けて、日本でもウクライナは「ナチズム」に冒された極右国家だと説く論者も結構現れた。「ファシズム」「ナチス」「極右」といった言葉は、定義を厳格にしてから使わないと事態を正確に理解できなくなる。ここで今回書くのは、ロシアの宣伝とは異なって、実はロシアの方が「ファシズム」化しているという認識である。ロシアのファシズムは何故起こり、どう理解するべきか。

 ロシアのファシズム化を象徴するのは、最近よくニュースに出て来る民間軍事会社ワグネル」だろう。2014年のドンバス侵攻頃から、「プーチンの料理人」と呼ばれるオリガルヒ(新興財閥)エフゲニー・プリゴジンが作り上げたワグネルの名前をよく聞くようになった。(「プーチンの料理人」とは、プリゴジンが創設したレストランやケータリングサービスが外国高官のもてなしに使われたからと言われる。)プリゴジンは資金提供者で、実質的な創設者はドミトリー・ウトキンという人物だとされる。この人物がナチスに親近感を持っていて、ヒトラーが愛好した作曲家リヒャルト・ワグナーから「ワグネル」と名付けられた。
(プリゴジンとプーチン)
 「民間軍事会社」というのは、イラク戦争でアメリカ軍占領地域の警備などに「活躍」したとして知られるようになった。しかし、「ワグネル」はそんな裏方みたいな仕事に止まらず、囚人に恩赦を与えると約束して戦闘に駆り出すなど、常識を越えた活動をしている。ウトキンはチェチェン紛争を経験し、残虐な行為をいとわない。ウクライナで起こった様々な残虐行為にも、ワグネルが関わっているものが多いらしい。シリアでも活動したし、中央アフリカやマリなどアフリカ諸国でも暗躍したという。ロシア政府が公然とは関与を認めない国でも、ワグネルを通じて影響力を行使しているのである。

 現在の話はちょっと置いて、歴史的に考えてみたい。現在のウクライナ地域は、19世紀後半にはロシアとオーストリアに分割されていた。ウクライナの大部分は、ロシア帝国時代に属し「小ロシア」などと呼ばれていたのである。第一次大戦でロシア帝国とオーストリア帝国がともに崩壊し、西部には一時リビウを首都とした西ウクライナ人民共和国が成立するも、ポーランド系住民が蜂起しポーランドが勝利した。ソ連(ソヴィエト連邦)が成立すると、各民族を「ソヴィエト共和国」に再編して連邦国家としたが、その時にも西ウクライナ地方はポーランド領に残された。
(独ソ不可侵条約以後のヨーロッパ地図)
 1939年に結ばれた独ソ不可侵条約には秘密条項が存在し、ドイツがポーランドに侵攻した後に、ソ連もポーランド東部を占領した。つまり、ここで西ウクライナ(リビウなど)は初めてソ連の一部とされたのである。その後、ソ連はウクライナ中部、東部と同様に急激な農業集団化を進め、激しい反発が生まれたという。そこに1941年になって、突如ドイツが不可侵条約を破ってソ連に侵攻を開始した。当初は優勢だったドイツ軍は、リビウでは「解放軍」として歓迎された。ウクライナの映画監督セルゲイ・ロスニツァが作ったドキュメンタリー映画『バビ・ヤール』で、その当時の映像を見ることができる。
(映画『バビ・ヤール』)
 もちろん最終的にはソ連が勝利し、リビウは再びソ連領に戻った。ナチス・ドイツと協力してソ連軍に抵抗した人々は、反革命犯罪者集団とされ厳しい弾圧にさらされた。それでも1960年代までは、ソ連支配に対するテロが散発したとされる。こうした「反革命犯罪者」は歴史の中で抹殺されてきたが、2014年の「マイダン革命」後に評価が逆転し、ソ連(ロシア)への抵抗者は「民族の英雄」と認定されたのである。「反ソ連」「反ロシア」がウクライナでは正しいこととされたわけで、これをロシア側から見れば「大祖国戦争」を冒涜する「ネオ・ナチ」に見えるかもしれない。

 世界のどの国にも極右支持者は存在する。当然ウクライナにも存在し、マイダン革命後はかなり力を持ったとも言われる。だが、ウクライナは独ソ戦で500万人以上の死者を出したとされ、常識的に考えてナチスを前面に出して政治活動を行うことは不可能だろう。ウクライナがソ連崩壊で「独立」した後も、94年、98年と共産党が選挙で第1党となった。親ロ派のヤヌコヴィッチが率いる「地域党」が成立すると共産党は小政党になったが、それでも2012年選挙までは存在していた。2014年以後にロシア寄りの政党の存在が問題になって、事実上ロシア派の共産党も禁止された。しかし、そのための法律は「共産主義・ナチズム宣伝禁止法」であり、ウクライナでは共産主義とナチズムを掲げる政党は結成できない。
(極右と言われたウクライナのアゾフ連隊)
 ネオ・ナチというなら、イタリアやフランスはどうなんだろう。イタリアでは、ネオ・ファシスト党である「イタリア青年運動」を継ぐ「国民同盟」の指導者ジョルジャ・メローニが首相に選ばれた。フランス大統領選では2回続けて、極右出身のマリーヌ・ルペンが決選投票に進出した。しかし、イタリアやフランスをネオ・ナチ国家とは言わないだろう。国内で言論の自由が確立しているからだ。一方、ロシアではプーチン政権の強権化が進み、反体制ジャーナリストや野党政治家が何人も暗殺された。ノーベル平和賞を受けたロシアの人権団体「メモリアル」も解散させられた。

 ファシズムの定義にもよるけれど、ロシアの状況はドイツや日本の1930年代を強く想起させる。プーチン体制をそのまま「ファシズム」とは呼べないかもしれないが、現段階は明らかにただの強権体制を越えている。市民的な自由が一つずつ崩されていった様子は、1930年代の「満州事変」から「日中全面戦争」にかけての日本社会に似ている。当時の日本もファシズムと呼ぶべきか論争があったが、そのような学問的定義は今どうでも良い。ロシアは一時「主要国首脳会議」に招かれ、その時点では「G8」と呼んでいた(1998年から2013年)。2006年にはサンクトペテルブルクでロシア初のサミットが開催されたのである。

 2014年のクリミア侵攻で、ロシアの参加は停止された。つまり、ロシアを世界の重要国として遇し、国際的秩序の中に包摂していこうという試みは完全に挫折したのである。もう皆が忘れてしまって、ずっと「G7」だったかに思い込んでいる。どうして、ロシアの民主化は失敗したのだろうか。それを考える時、1920年代ドイツのワイマール共和国を思い出すのである。文化の花開いた時代でもあったが、自由の下でナチスが支持を広げていた。ベルサイユ条約でドイツに課せられた巨額の賠償金がドイツ人の民族感情を傷つけたのである。ソ連崩壊後、別に巨額の賠償金などはなかったけれど、ソ連の優位性を教えられて育ったロシア人は、ソ連崩壊と経済危機に深く傷ついたのだろう。そのルサンチマン(遺恨感情)が30年代ドイツと同じく、強権的、好戦的国家として蘇ったプーチンのロシアを作り出したのだと考えられるのである。
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