尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「日本の悲劇」(小林政広監督)

2013年09月05日 23時57分27秒 | 映画 (新作日本映画)
 新作映画「日本の悲劇」を見たので、その感想。題名の読みは「にっぽん」と読ませてる。同じ題名(読み方は知らないが)で、木下恵介監督「日本の悲劇」という映画もあり、つい最近見て記事を書いたばかり。今回の映画は小林政広監督の作品である。
 
 この映画はとても変わった映画で、普通の意味での劇映画とはかなり趣が違う。でも、紛れもなく日本の現実を鋭く描いた今年の劇映画の収穫の一本だと思う。登場人物は4人。(赤ちゃん役の子役が一人いるが、まあ配役とまでは言えない。)その中でも、母親(大森暁美)と息子の妻(寺島しのぶ)は途中で消えてしまうので(回想シーンでは始終出てくるが)、映画内の現実時間では父親(仲代達矢)息子(北村一輝)の2人しか出てこない。この2人は、もう大変追いつめられた段階にある。その2人を中心に、回想シーンを含めて、カメラは据え置きで全然動かない。時間は行き来するが、ある一家の部屋にカメラを置いて、家族の行く末をじっくりと見つめている。それも白黒で。ずっと白黒かと思えば、最後になって赤ちゃんのいる回想シーンがカラーになる。つまり、この映画はある家族が、「色を持っていた時から色を失うまで」を描いている。

 映画の冒頭で、仲代達矢の父親が病院から戻ってきたらしいところから始まる。良くなったのではなく、手術(治療?)を拒否して退院してしまったらしい。息子が布団を敷きかけると、いいから放っておいてくれという感じで、取りつく島がない。仲代は頑固というか偏屈な老人を、圧倒的な存在感で演じている。このままでは余命あと数か月らしいが、亡妻との思い出のみで生きているようだ。一方の息子の方も、今は無職で毎日のように職探しに通っているが、全然決まらないらしい。そういう現在のあり方は、字幕もナレーションもないので、最初はなんだか判らない。ただセリフを追っていくしかない。

 そういう「不親切」な映画作りは、小林政広監督の十八番である。小林政広(1954~)という人は、20世紀の終わりごろから、大手の映画会社と関係ないインディーズ映画を発表し始めた。それらをカンヌ映画祭などに出品し、外国でまず知られた。05年の「バッシング」は、イラク人質事件を描いた映画で、カンヌ映画祭のコンペに選ばれた。また07年の「愛の予感」はロカルノ映画祭グランプリで、少年犯罪の被害者と加害者双方の家族を扱っている。そういう主題的にも大変そうな映画なんだけど、手法的にも「わかりやすい社会派映画」を作る気はなさそうだ。2010年の「春との旅」は、有名俳優を多数キャスティングして(仲代達矢が主演で、淡島千景の遺作)、今までの中ではかなり一般的な映画で、老いた仲代と孫娘の「放浪」を描くロード・ムーヴィーとして面白い。だが、それでも何で旅してるのか、最初は説明がなく、画面上でウロウロしてるのを見つめているしかない。

 だから、この映画が最初はなんだか判らなくても全然驚かないが、それでも画面の中にある、うっとうしいまでの「日本の悲劇」の予感には圧倒される。果たして父親は、翌日になって部屋にこもってガムテープなど(と思われるが)を張りめぐらし、外部との接触を一切断ち部屋の外には出て来なくなる。そのまま死んでいい、ミイラになりたいという感じである。その後の回想で、この一家の出来事がだんだんわかってくる。息子は突然いなくなり、妻と子どもは暮らせないから実家の気仙沼に帰ってしまう。判を押した離婚届だけを残して。息子はやがて帰ってきたが、その間は長野県の精神病院にいたという。リストラされ自殺を考えるようになり、家族のことを考える余裕が全くない状態に陥ったらしい。妻は自分を家族のことを考えない会社人間だと批判したが、息子本人は家族のために自分の時間を削って働いてきたと思っている。会社人間じゃなかったから自分はリストラされたんだと納得させている。息子が帰ってきたときに母親はいなかった。買い物に行っていたのだが、そのとき電話がありスーパーで倒れ病院に運ばれたと伝えられる。

 こうして二人の生活になった時に、大地震が起きる。仲代の父は食堂の机の下に隠れている。どうやら東北で大地震が起こったらしい。息子の妻と子は果たして大丈夫だろうか。と悲劇がこの家族を襲い続け、息子は職と妻子を失い、父親の年金で暮らしているが、その父が部屋に閉じこもってしまった…。というのがこの家族の「悲劇」のあらましなんだけど…。映画はひたすらじっくりと見続け、失われた良き日をカラーで描き出す。そこには孫の誕生を喜び、息子と酒を飲みかわす平和な日常があったんだけど…。

 さて、この映画は何かを解決するための映画ではなく、現実を重く提出しているだけである。そこで僕が少し外部から考えてみたい。親が先に死ぬのはやむを得ない。その家族にとっては悲しいだろうが、孫がいるほどの年齢の人が病気になるのは避けられない。まあ、その病気になる年齢は人により何十年かの差があるが。特に父親はタバコと酒を大分たしなんでいるから、まあ仕方ない。でも母親は突然だった。突然の死はある意味で幸せだが、それは家族を残さない場合だろう。息子が行方不明のまま、父親を残し死ぬのは残念だったと思う。本人は日本の多くの家族と同様、自分が後に残ると思っていたに違いない。やはり父親が残されるのは、面倒くさいか。言っちゃなんだけど。

 でもそれは病気だからやむを得ない。問題は息子がリストラされたことで、その説明はないから実態は判らないが、無法なリストラは世の中に多いから会社に問題がある可能性も高い。が、同時にこの息子は精神病院に長期入院していたというから、うつ病か被害妄想などの病状があったと思われる。家族に相談もせず長期入院になったという経緯から見ても、かなり重かったのではないか。それを妻が気づかないのは、この病気に対する理解が社会的に不足しているということである。退院したとはいえ、普通はすぐに社会復帰できるとは限らない。むしろ難しいことの方が多いだろう。そう考えると、退院後に東京で通院はしていなかったのかが気になってくる。僕は病状から見て、精神障害者保健福祉手帳の認定が可能な段階だったのではないかと思えるのだが。そうすると、以前は会社勤めだから厚生年金に加入していたはずだから、障害厚生年金が受給できる可能性がある。(病状が軽くて認定されない場合もあるわけで、画面だけでは判らない。)しかし、もしそうなっていれば「父親の年金で食べている」などという本人の屈辱感はかなり薄くなると思う。ただし、この家族のあり方から見ると、精神障害者に関して深い理解がなく、かえって落ち込む可能性もあるかと思うが。

 問題はそういうことよりも、この映画は完全に家族しか出てこないで、医者、ソーシャルワーカー、介護士、行政関係者などが全く登場しないことである。登場しないでも映画が成立してしまうのは、それを不思議に思わない日本の現実がある。実際は父親も母親も息子も、病院にいたわけだから、何らかの手立てがどこかでなされるべきだった。この映画に家族しか出てこないということが「日本の悲劇」なのではないかと僕は思ったわけである。これは映画の出来の評価とは違う話だけど、映画を見ていて僕はそのことを感じ続けていた。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山崎今朝弥「地震・憲兵・火... | トップ | 日光旅行を簡単に »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

映画 (新作日本映画)」カテゴリの最新記事