尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

古山高麗雄の戦争小説

2013年09月22日 00時03分15秒 | 本 (日本文学)
 8月半ば以来、古山高麗雄(ふるやま・こまお)の戦争小説をずっと読んでいた。ようやっと読み終わったので、一応まとめておこうと思う。小説の紹介(書評)だと、まあ大抵「好著であり、多くの人に一読を勧めたい」なんて終わる。でも、まあ今回書く本はたいていの人は読まなくてもいいんではないか。「戦争を知る」という意味では残っていくと思うから、今では唯一文庫本で本屋にある「二十三の戦争短編小説」(文春文庫)は手元にあってもいいかもしれない。でも「好著」だからと言って、これほど読みにくい小説を皆ガマンして読む必要もないだろう。
 
 そもそも「古山高麗雄って誰」という人が多いと思うので、まず作者の紹介。古山高麗雄(1920~2002)は、1970年に自身の戦争体験(ベトナムの戦犯収容所体験)を描いた「プレオ―8の夜明け」で芥川賞を受賞した作家である。その時点で50歳だから、作家としては遅く出てきた。晩年になって「断作戦」(1982)、「龍陵会戦」(1985)、「フーコン戦記」(1999)を書き、この戦争三部作で2000年に菊池寛賞を受けた。また「セミの追憶」(1993)が、短編に与えられる川端康成賞を受けている。「プレオ―8の夜明け」や「セミの追憶」などは「二十三の戦争短編小説」に収められている。捕物小説なども書いたけど、大部分は戦争を主題にした私小説だった。
  
 まず戦争三部作。これは2003年に文春文庫に入ったが、その時点で「断作戦」は刊行後20年たっていて、作者の死後にやっと文庫に入った。帯に「幻の戦争文学」と書いてある。この三部作はまあ買っておこうかと思って10年以上、ずっとメンドーそうで手に取らなかった。読んでみてやっぱりずいぶんメンドーな本だった。特に戦争を知りたいと強く思う人以外には、あえておススメしない。というのも「戦争というものは退屈なもの」だからである。読んでも読んでもドラマチックにならず、全然読み進まない。いや、もちろん戦争に連れて行かれた兵士本人にとっては、とても「退屈」とは言えない。でも、戦争と言っても、そこには「日常」があるのである。だから「退屈な日常」が長々と続き、そしていつの間にか終わっている。そういう本である。

 この三部作の背景にある戦闘は、ほとんど日本で知られていない。簡単に言うと、ビルマ(ミャンマー)の北部から中国雲南省にかけて展開された作戦である。日本の侵攻に対して、中国国民党の蒋介石は、四川省の重慶に首都を移して抗日戦争を戦った。重慶に対する英米の支援ルートはいろいろあったが、戦争末期の1944年時点でビルマから雲南を通して重慶に至る「援蒋ルート」の遮断を図ったのが「断作戦」である。その前にビルマ駐留軍をインドに向かわせ大失敗に終わったインパール作戦があった。軍上層部の無能で多くの日本兵が死んだ典型的作戦である。インパール作戦は有名だが、その直後に行われた「断作戦」以後の戦争は日本ではほとんど知られないままである。(なお、断作戦を進めたのは、かの悪名高き辻正信参謀である。)

 理由としては、敗走するだけの戦闘だから宣伝されないし、戦争の悲惨としてはインパール作戦が有名過ぎたということもあるだろう。またアメリカの支援を受け重装備した国民党軍が主敵だったということもあるんじゃないか。日本では「アメリカの物量には負けたけど、中国には負けていない」とか「中国人民は中国共産党の八路軍を中心に抵抗した」とか思い込んでる人がいる。中国正規軍(国民党軍)は腐敗してるだけではなく、このように強い軍隊だったという認識が不足していたことも大きいと思う。

 古山自身は龍陵会戦に参加した。部隊は第二師団(仙台)の勇兵団である。しかし雲南戦線の主役は久留米の龍兵団(第五十六師団)だという。ここはほとんど全滅してしまった。その運命を書き残したいと思い「断作戦」を書いたのである。これは深い取材をして書いた本だが、続いて自分たちの戦闘を書き残して欲しいという声が寄せられ、自身の「龍陵会戦」を私小説的に書いた。さらに北ビルマのフーコン谷で行われた戦闘に参加した、長崎県大村の菊八九〇二部隊(歩兵第五十五連隊)だった兵士から自分たちも書いて欲しいとの声が寄せられ「フーコン戦記」を書いた。「フーコン戦記」を書くまでに10年以上かかっているが、それは著者はビルマ方面の戦場へは行ってないので、実際にフーコン方面を訪ねるなどの取材を重ねていたためである。(その紀行は遺著の「妻の部屋」に収められている。)

 これらの戦記はとても貴重で、他に読んだことはない気がする。でも、とにかく読むのが大変なのである。なぜなら戦争というものは、兵士には全貌が見えないからである。著者は朝鮮北部の新義州(中国との国境の町)出身で、京都の三高に入るが、当時の日本に深く絶望するとともに文学にめざめ、結局落第して退学した。東京で予備校に通っていた間に、安岡章太郎らの「悪い仲間」と知り合い、青春無頼の生活を送っていた。しかし、これでは徴兵猶予にならず、1942年に徴兵された。父親が宮城県出身なので、本籍地の東北の部隊になるが東北弁もしゃべれず、偏屈な兵士だったようだ。体力もなく、何をさせてもダメというような兵士だったように書いてある。

 そういう体力がない兵隊にとって、軍隊がいかに大変か。とにかく移動、移動で重い荷を背負って歩き、着いたところで穴を掘る。その「塹壕」で眠る。でも雨が降り続き寒い。山地なのである。マッチが濡れないように支給された衛生サック(コンドーム)に入れておくが、それでも濡れる。そして、死を見る。初めは動揺するが、だんだん当たり前になる。「死」さえ、日常化するのである。人間は何にでも慣れてしまう。死ぬか生きるかは運次第。たまたま命令で離れていたら助かったり、ぐずぐずして遅れたら助かったり。日本軍も少しは大砲がある。でも主人公は日本軍が反撃しないでくれと祈る。こっちの場所を教えるだけで、日本の撃った数倍の大砲が撃ち返されるだけだと判っているから。そして敵の砲弾に当たるかどうかは偶然。「軍隊とは運隊」。

 熱帯だから熱帯の病気があり、吸血ヒルも猛威を振るう。もちろんマラリアもある。そんな中で、原住民の人びとの村を焼く。虐殺がある。主人公は当たらないように銃を上に向けて打つが、ヘタだから当たらないと思われるような兵隊だった。塹壕に入りながら、「思うこと」だけは自由である。食べものを思い、家族を思う。村にいる原住民の可愛い女性と仲良くなり、一緒に脱走して共に暮らす夢を思い描く。「慰安所」もある。内地にいた時は玉ノ井に通ったのに、戦場で「慰安所」に行く気はしない。三人一緒じゃないと外出できないから、慰安所へ行く兵と外出して自分は原住民に言葉を教えてもらったりしていた。でも「女を知らずに死ぬのは耐えられない」という戦友に頼まれて、一緒に連れて行ったこともあった。自分たちも「強制連行」された兵士であり、「慰安婦」も「強制連行」されている存在。

 戦争だから、そこには(善悪を超えて)波乱万丈の日々があるかと思うと、それはない。特に日本の軍隊は細かな規則や私刑(体罰)が多くて特殊だけど、多分どこの国の軍隊でも基本は同じだろう。兵士は命令のまま動かされるだけで、運次第で生命を投げ出す。しかしそれさえ「日常化」してしまい、単に日常のように死んで行くのである。著者は捕虜収容所に回され、そこでの出来事で戦犯容疑がかかるが、それは多くの短編小説に詳しい。収容所内では、小説や映画の記憶を基に座興芝居を書いて大受けした。やっとところを得た。

 著者は戦後は様々な出版社を転々とし、苦しい生活時代が続いた。「季刊芸術」の編集担当になり、そこに「プレオ―8の夜明け」を載せた。この雑誌は江藤淳などが関わるもので、著者は「保守」の陣営にあった。軍隊の不条理、旧軍隊の虐殺行為などを書いたが、戦後は左翼批判に回る。それは多分、戦争中の軍隊と同じにおいを、戦後は「サヨク」の中に見たということだろう。しかし、晩年になるとけっこうウットウシイ作品が多い。同じ話の繰り返しが多くなるし、「年寄りの話をじっくり聞く」という体験になる。ま、そんな読書体験。
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