事前のニュースで、「最終プレゼンに参加する佐藤真海さんがブエノスアイレスに出発」という映像を見たんだけど、その時は僕も「Who is Mami?」という感じだった。いやあ、このような「隠し玉」があったんだ。最終プレゼンは「風立ちぬ」の感想が書き終わらないので、本当は翌日の旅行のために休みたいんだけど、何となくテレビをつけていて見てしまった。笑顔、スポーツの力、判りやすい英語、病気と震災を乗り越えてきた経験を力強く語った。「はまりすぎ」で「よくもこんなアスリートがいたもんだ」とも思ったけど、素直に感動したのも確かである。
これが「プレゼン」(プレゼンテーション、 presentation)というもんなんだろう。最近よく言われる「英語力」「コミュニケーション力」「発表力」なんかを育てなさいというのは、こういうことができる能力のことを指すのに違いない。英語ができても、内気そうにぼそぼそしゃべるのではダメで、英語は簡単でいいから(IOC委員の相当数は英語が母語ではないはず)、ボディ・ランゲージを含めて「表現する力」が重要なんだろう。
そして最後近くに、安倍首相が登場して福島第一原発事故の汚染水問題を語ったわけである。その「the situation is under control」 と言う発言である。首相のプレゼンが、判りやすい英語だったことは評価しなければならない。このくらいの内容は大体判った。この発言について、それ以後日本では様々な批判が相次いでいる。東電も「福島第一原発近くで封じ込めている」という説明が、全くの事実ではないことを認めている。だから安倍発言はまあ「ウソ」か「誇張」か「主観的真実」か「誤認」のどれかということになるはずである。しかし、僕はその問題には、あまり関心がない。多分そういうことを問題にしても、「プレゼンなんだから」「招致に成功したんだから」といなされてしまいそうである。
「内容の真実性を誠実に語る」のではなく、「聞くものに強い印象を与え、はっきりしたメッセージを送る」ことを最初から目標にした言辞を、中身の真実性だけで追及しても「のれんに腕押し」ではないのか。そして、これからしばらくは、こうしたコトバが横行するんだろうなあという暗い予測がある。僕は言葉と言うのは、内容の真実性が一番大事だと思うが、だから震災や原発事故を語るときには「時には口ごもる」という言葉しか発せない。あんなに明るく保証すること自体に違和感があるのである。
でも、まあ首相が世界に向けて宣言しているのである。「だから、やってもらいましょう」と言う意見もある。ちゃんと原発事故の処理をしてください、と。それはまあ当然だし、僕も特に異論はないけど、多分実際は違ってくる。いつの日からか、「まだ原発にこだわっているのか」「五輪に水を差すようなことはしばらく止めよう」というムードが世の中を覆い尽くすんだろうなあと思うのである。
「最近原発のニュースがないけど、うまく事故処理が進んでいるんだろうか。よっぽどひどい状態なら、さすがに報道されるだろうから、きっとうまく行ってるんだろうなあ」なんて思わせられてしまう。皆関心の外に追いやられ、実際はひどい状態でも記者は近づけないから判らない。報道発表がないから、判らないのである。一部のメディアはまだこだわってるけど、テレビやネットのニュースでは、もう五輪のことばかりである。沖縄には米軍基地があるが、皆忘れてしまっている。と言う風になるに決まってると僕は思うのである。
成熟した民主主義社会では、反対意見がある方が自然である。1964年にはなかった反対運動が、1970年の大阪万博の時には存在した。「人類の進歩と調和」を掲げる万博に対し、それは間違っているという「ハンパク」が存在した。長期間にわたる万博と五輪は違うけど、「負の部分」を覆い隠そうとする「見えない権力」「見える権力」の横暴に対し、やはり五輪の陰に隠される問題を突き付けていく覚悟は必要だと思う。
「五輪の開催都市にふさわしくないもの」に対する圧力が今後どんどん強まっていくだろう。例えば「ホームレス」や「経産省前テント村」などもそうだろうが、「ヘイトスピーチ・デモ」や「右翼の街宣車」だって隠されるに決まってる。「英語を話せない日本人」とか「コンビニの前で座ってるヤツラ」とか「怪しいフーゾク街」とか。明るく元気なニッポンだけが残る。しかし、それで済むわけがない。大都市と言うのは、わい雑な雑踏の中にこそ魅力があるのである。そしてそういう社会のなかで、戦略的に五輪を利用して行けばいいのではないか。ちょうどヒロシマ、ナガサキの時期に開かれる五輪なんだから。五輪は五輪で楽しい所も多いわけだが、同時に「民主主義を押さえる力」としても働く。民衆側の構想力も問われていく7年間になるだろう。
これが「プレゼン」(プレゼンテーション、 presentation)というもんなんだろう。最近よく言われる「英語力」「コミュニケーション力」「発表力」なんかを育てなさいというのは、こういうことができる能力のことを指すのに違いない。英語ができても、内気そうにぼそぼそしゃべるのではダメで、英語は簡単でいいから(IOC委員の相当数は英語が母語ではないはず)、ボディ・ランゲージを含めて「表現する力」が重要なんだろう。
そして最後近くに、安倍首相が登場して福島第一原発事故の汚染水問題を語ったわけである。その「the situation is under control」 と言う発言である。首相のプレゼンが、判りやすい英語だったことは評価しなければならない。このくらいの内容は大体判った。この発言について、それ以後日本では様々な批判が相次いでいる。東電も「福島第一原発近くで封じ込めている」という説明が、全くの事実ではないことを認めている。だから安倍発言はまあ「ウソ」か「誇張」か「主観的真実」か「誤認」のどれかということになるはずである。しかし、僕はその問題には、あまり関心がない。多分そういうことを問題にしても、「プレゼンなんだから」「招致に成功したんだから」といなされてしまいそうである。
「内容の真実性を誠実に語る」のではなく、「聞くものに強い印象を与え、はっきりしたメッセージを送る」ことを最初から目標にした言辞を、中身の真実性だけで追及しても「のれんに腕押し」ではないのか。そして、これからしばらくは、こうしたコトバが横行するんだろうなあという暗い予測がある。僕は言葉と言うのは、内容の真実性が一番大事だと思うが、だから震災や原発事故を語るときには「時には口ごもる」という言葉しか発せない。あんなに明るく保証すること自体に違和感があるのである。
でも、まあ首相が世界に向けて宣言しているのである。「だから、やってもらいましょう」と言う意見もある。ちゃんと原発事故の処理をしてください、と。それはまあ当然だし、僕も特に異論はないけど、多分実際は違ってくる。いつの日からか、「まだ原発にこだわっているのか」「五輪に水を差すようなことはしばらく止めよう」というムードが世の中を覆い尽くすんだろうなあと思うのである。
「最近原発のニュースがないけど、うまく事故処理が進んでいるんだろうか。よっぽどひどい状態なら、さすがに報道されるだろうから、きっとうまく行ってるんだろうなあ」なんて思わせられてしまう。皆関心の外に追いやられ、実際はひどい状態でも記者は近づけないから判らない。報道発表がないから、判らないのである。一部のメディアはまだこだわってるけど、テレビやネットのニュースでは、もう五輪のことばかりである。沖縄には米軍基地があるが、皆忘れてしまっている。と言う風になるに決まってると僕は思うのである。
成熟した民主主義社会では、反対意見がある方が自然である。1964年にはなかった反対運動が、1970年の大阪万博の時には存在した。「人類の進歩と調和」を掲げる万博に対し、それは間違っているという「ハンパク」が存在した。長期間にわたる万博と五輪は違うけど、「負の部分」を覆い隠そうとする「見えない権力」「見える権力」の横暴に対し、やはり五輪の陰に隠される問題を突き付けていく覚悟は必要だと思う。
「五輪の開催都市にふさわしくないもの」に対する圧力が今後どんどん強まっていくだろう。例えば「ホームレス」や「経産省前テント村」などもそうだろうが、「ヘイトスピーチ・デモ」や「右翼の街宣車」だって隠されるに決まってる。「英語を話せない日本人」とか「コンビニの前で座ってるヤツラ」とか「怪しいフーゾク街」とか。明るく元気なニッポンだけが残る。しかし、それで済むわけがない。大都市と言うのは、わい雑な雑踏の中にこそ魅力があるのである。そしてそういう社会のなかで、戦略的に五輪を利用して行けばいいのではないか。ちょうどヒロシマ、ナガサキの時期に開かれる五輪なんだから。五輪は五輪で楽しい所も多いわけだが、同時に「民主主義を押さえる力」としても働く。民衆側の構想力も問われていく7年間になるだろう。