尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

(改)宮崎駿監督の「風立ちぬ」

2013年09月10日 23時56分28秒 | 映画 (新作日本映画)
(注)2013年9月7日に、宮崎駿監督「風立ちぬ」を見て、その感想「宮崎駿監督の『風立ちぬ』-パラソルを受け取るもの」を書いた。しかし、翌日から旅行に行くということもあり、急いで書いたため意に染まない部分があったように思う。そこで考えを少し整理して、書き直してみた。前は長くなり過ぎてしまったので、それも整理しておきたい。なお、喫煙シーン問題は重要だが、論点が拡散するので改版では削除した。僕は病床で吸うシーンはいらないと思っている。

 宮崎駿監督の長編アニメーション映画の最終作品、「風立ちぬ」を見た。アニメと言う手法は実写映画以上に大変だと思うけど、「風立ちぬ」を見たら「やはりこれが最後なんだろうな、それでいい」と僕は思った。出来そのもの以上に、この映画は「メタ宮崎アニメ」であって、ここで「自分がアニメを作り続けたということの意味」そのものを主題化してしまった。もうこれから、気力・体力を奮い立てて新しいテーマに挑むのは本当に大変だと思う。

 ところで、ただ「風立ちぬ」と言ったら堀辰雄の小説を指すと僕は思う。堀辰雄の小説は2回映画化されているので、単に映画「風立ちぬ」と言えば、本当はそちらを指すはず。(最初の島耕二監督版は大胆不敵にもヒロイン節子が治る設定にしちゃったらしい。二度目は百恵・友和映画。)僕はこの映画を見る前に、いくらかの心配があった。それはゼロ戦設計者をモデルにしてるとか、庵野秀明が主役の声優をしてるとか、初の大人向けアニメであるとか、日本の戦争の時代をどういう風に描いているのだろうか…などの問題ではなかった。でも、実在の人物と小説内の人物を融合させてしまうというこの映画の根本的設計が、いくら何でも少し無理なんではないかと思ったのである。先に書いたように、小説「風立ちぬ」のヒロインの名前は節子で、この映画のヒロイン「菜穂子」は、堀辰雄が目指した本格的近代小説「菜穂子」から取ったんだろう。

 つまり、この映画は単に堀越二郎と「風立ちぬ」をくっつけた物語というより、実際の主人公は近代日本であり、近代化に賭ける「少年の夢」なのだと思う。その夢は十分に描かれているか。見た時は「物語の力」で感動してしまうのだが、だんだんとこの映画の根本的構成が無理をしているのではないかという感じが強くなってきた。この映画は基本的には近代日本の歩み、その中で生きざるを得ない「少年の夢」の矛盾と挫折を描いている。だから、僕にはこの映画を否定的に語ることが難しい。僕にとって否定することができない点、つまり「日本の中で生まれ、その矛盾を引き受けて生きるということ」「少年時代の夢を追い求める生き方」をこの映画は主題にしている。この映画の時代は、「戦争と結核があった時代」である。この映画は実際の日本の町や人々を実際よりもかなり美しく描いていると思う。本当の町はもっと汚く、人びとの心も差別的、好戦的だったろう。でも、主人公の美しい夢、美しい恋を描き出すために美化されて描かれている。

 この映画は宮崎駿の自己言及だと思った。宮崎アニメは「飛ぶことへの夢と憧れ」で満たされている。監督本人が飛行機や戦争のマニアでありつつ、思想としては反戦主義者であるという「自己矛盾」を生きている。ナウシカやラピュタの魅力は、その構想力や映画的快感とともに、様々な戦争技術のリアルな想像力も大きく貢献していた。宮崎駿自身が様々な矛盾を抱えている存在であり、それは近代日本が抱えてきた矛盾である。主人公の堀越二郎は、存在の根底において宮崎駿と同根の、心の中はリベラルだが技術としての戦争用具を構想しているという存在である。だから、宮崎駿は今までのように自分の外部の物語ではなく、自分の内部の物語を作ったわけである

 この映画は堀越二郎と堀辰雄である以上、主人公はゼロ戦を作り愛する妻は亡くなるしかない。「少年の夢」を描くという監督の意図からして、主人公にとっての妻は、伝説的に出会い民話のように消えていく存在である。美しいが、主人公に運命を伝えるという役割を果たす従属的な存在になっている。出会う場所は、関東大震災という災厄と日本とは思えない軽井沢のホテルである。非日常の物語の中でしか知りあうことができない。だから、初めから女性は「夢のような場所で出会い、夢を追い求める男を支える存在」である。「関東大震災の日に、飛んだ帽子を手渡された」時から、「軽井沢の美しい自然の中で飛んできたパラソルを手渡す」時までの長い時間に、日本は決定的な戦争への道を歩み始めている。この再会は1933年という、ナチスが政権を獲得した年とされている。二人の美しい夢は、結核と戦争でひき裂かれて終わる。

 「ナウシカ」から「もののけ姫」へと至る「闘う少女」伝説は、ここで大きく変容したように思える。というよりも「自分を描く」ことで、宮崎アニメの本質が見えやすくなったということだろう。「少女の力」により世界が変革される物語のように作られてきた宮崎アニメだが、「物語の構造」としては一貫して「少年の夢」であり、「少年」が好む「美少女」が「ヨーロッパの街」(のような風景)で大活躍する物語だった。今回は生活者として組織内で仕事人間として生きる二郎という「宮崎自身」を描くが、「夢のように美しい恋愛」はやはりヨーロッパのような軽井沢のホテルで展開される。同時代に作られていた清水宏の映画に出てくる温泉旅館に行く庶民は視界から消されている。これが「近代日本の矛盾」そのものであるのは明らかだろう。僕にはそういう物語を作ってきた宮崎駿を否定できないが、それでいいのだろうかという気もするわけである。

 この映画は「夢の役割」を提示したのであって、現実の戦争は描かれていない。ゼロ戦を作った男を主人公にしたと言われつつ、この映画ではゼロ戦はほぼ描かれない。ゼロ戦自体は、戦闘機であって爆撃機ではないので、基本的には戦闘機どうしの「一騎打ち」のための道具である。「武士の刀」と同じ性格のものであり、日本刀の美というものが判るように、戦闘機の持つ機能美というものも理解できる。ゼロ戦を描いたから、戦争肯定ではないのかという発想は取らないが、このような「メカ」好みを共有できないと映画の根本を評価できなくなるだろう。徹底して「メカニックなもの」への偏愛をうたいあげる「少年の夢」に共感できるか、それがこの映画の評価を決めるのではないか。(なお、ゼロ戦のゼロは、神話上の「皇紀」による「紀元2600年」から来ている。)

 軽井沢のホテルのシーン、ピアノで弾いているのは「会議は踊る」の主題歌である。1931年製作のドイツ映画。ワイマール時代の代表的なドイツ映画である。中身はウィーン会議でロシア皇帝がお針子に恋するというオペレッタ。イタリアのカプローニ伯爵と言い、ヨーロッパ貴族的リベラリズムが主人公の心の中に息づいているのだと思う。それは軽井沢の高級ホテルやイタリアの伯爵の中にしかない夢であって、日本の庶民の中にはない。このような「精神的亡命者」が日本の知識人の生き方であり、それが今も続いているというのが宮崎アニメだったのではないか。なお、松任谷ならぬ「荒井由美」の「ひこうき雲」が主題歌に使われているが、僕はそのレコードを持っている。デビューした時の鮮烈な印象を今も覚えている。まだ19歳だった。LPレコードだから全部がスキャンできないが、こんなジャケット。
 
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2 コメント

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大変なものだと思います (さすらい日乗)
2013-09-11 19:22:09
ブログにも書きましたが、この映画は、かつて野間宏らが称えた「全体小説」の試みで、それに成功していると思う。
これだけ戦前、戦中の庶民や社会、風俗がきちんと描かれている作品はないと思う。
その意味で、宮崎監督が引退すると言うのも無理はないと思う。
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どうなんでしょうか (ogata)
2013-09-11 20:27:03
 いやあ、見たすぐ後はそういう感じもしたのですが、だんだんどうなんだろうという気が強くなってきたのです。少なくとも、戦前、戦中の社会や風俗がきちんと描かれているというほどの評価は難しいように思うのですが。

 ある種の「内的亡命者」の精神は描かれていますが、現実の庶民の生活はほんの少ししか出て来ません。「内的亡命者」として生きてきた、宮崎駿を含む(僕も含む)多くの人の心に響くものはあるんですが。というのが今の時点での感想。
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