尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

2020年東京五輪問題③

2013年09月14日 00時16分00秒 | 社会(世の中の出来事)
 僕は今後の五輪準備期間がものすごくつまらないものになるだろうと予感している。間違ってもらっては困るが、五輪自体は世界最高のスポーツ選手が集まってくるんだから、いくつもの感動のドラマが繰り広げられるに決まってる。でも、お金も時間も限られているんだから、東京でやってるからと言ってそれを生で見ることはできない。まあ、一つ二つは見られるかもしれないけど。だから、その「感動のドラマ」は大部分をテレビで見るだろうから、世界中どこでやってても同じ。むしろ夜9時、10時頃にいっぱい見られる時間帯の国の方が望ましい。(覚えてる人も多いと思うけど、北京五輪の水泳はアメリカのテレビ時間の都合で午前中に決勝を行った。そんなことが東京でもあれば、多くの人はテレビでもライブでは見られない。)

 僕が言いたいのは、準備期間や開催中でも裏方などの「表に出ない仕事」の部分のことである。大きなイヴェント、学校で言えば「文化祭」や「修学旅行」なんかだけど、当日も確かに大事だけど、ホントに重要なのは当日までの準備期間であり、そこが楽しいかどうかで本番が決まってくると思う。まあ、スポーツの話だから「体育祭」と言うべきか、生徒がせっかく盛り上げようといろいろ企画してるのに、教員側がもうやり方は全部決まってるんだ、君たちは教師の言うとおり動いてくれればいいのだ、自分たちで工夫する必要はない、当日はたくさんの来賓が来るので失礼のないようにするのが君たちの役割だ、とか何とか言ったら、それは楽しい体育祭になるだろうか。

 1964年の東京五輪の時は、そういう大規模イヴェントを企画、運営するシステムはできていなかった。だから当事者が多くの創意工夫でシステム自体を作り出していったのである。それは「TOKYOオリンピック物語」と言う本の紹介で以前に書いたことがある。例えば、選手村で一斉に多数の人向けのいくつもの食事を作るというやり方はそれまでになかったものなのである。今ではホテルのパーティでサンドイッチとかたくさんの食事が並んでいるのが当たり前に思ってるけど、それは東京五輪で学んだ成果を料理人が地方に広めていった結果なのだという。そういうことも含めて、初めて日本という社会が「現代化」されたきっかけが東京五輪だったわけである。

 ところがその後様々な巨大イヴェントを日本は経験し、「システム」はもう完成されつくしている。秒単位で仕切ったスケジュール表が作られ、後はそれを守れと言われるだけだろう。「個人の工夫」なんて発揮する余地はない。と言うか、発揮するなと言われる。なぜなら、東京都やJOCが五輪を運営するのではなく、いや形としてはそうなんだけど、実際はイヴェントを企画運営する会社に請け負わせるわけだし、その会社は実際の会場設営や様々な準備をさらに下請けの会社に請け負わせ、その会社はさらに下請けの会社に実際の仕事を発注する…ということになる。そしてその最後の会社は儲けの幅が少ないから、非正規の派遣社員を雇って五輪の準備をさせるわけだ。そんな非正規社員が「創意工夫」を勝手にしていいはずがない。言われた通りやればいいということになる。それでは士気が下がるから、「ボランティア」と言う名のタダ働きを動員する。でも、スマホで「ボルト、選手村で食事、なう」とかツイッターで写真を流されたりしないように、ボランティア登録には大学の推薦がいるし、入り口でスマホは預かるとか、ま、そういうようなことになるに決まってる。(ボルトはもう出てないだろうけど。)

 今日の東京新聞に「五輪セールにピリピリ」と言う記事が出ていた。ディズニーが商標を守ることに熱心で、学校の文化祭なんかでミッキーマウスを使ったりするのもダメなんだと聞いたことがあるが、それは私企業だから当然と言えば当然だろう。でも、五輪もパートナー企業を守ることに熱心で、商業利用に極めて厳しいんだそうだ。だから「2020 開催ありがとうセール」とか「祝東京2020」とか「やったぞ東京!」とか全部だめだという。さらに「7年後の選手たちに声援を」とか「未来のアスリートを応援します」なんて言うのもダメらしいというから呆れてしまう。どこかの会社やお店が、本当に純粋な気持ちで「祝東京五輪」と書いた手製のポスターを貼ったりしたとして、それが何の問題になるのだろう。これが「システム」と言うヤツなんである。ミッキーマウスが私企業のものなのはわかるが、五輪のマークや五輪開催自体に商標があるということがわからない。五輪マークはそもそも全人類のものではないのか

 まあそういうことがこれからいっぱい起こるのである。「そういうこと」というのは、盛り上げるために企画したことが中止させられたり、よりよくなるように工夫したことがダメだと言われて元に戻させられたりする…と言ったことである。だから、命令でやれと言われたことをただやってれば、角が立たないからそれが一番いいのである。そういう社会なんだから、そうなるに決まってると僕は思うのである。一番上のトップにいる人はまた別かも知れないが、まあ下々のものはあまり自分で盛り上げたいなんて考えてはいけない。

 でもそれができない境遇の人がいる。学校なんかは、「東京クリーン作戦を行うので、各校10人ずつボランティアを出すこと」なんて「語義矛盾」の通知がひんぱんに来るに決まってる。中学、高校、大学に在学している人は、この「ボランティア」に積極的に応募するしかない。なぜなら、進学や就職の面接で聞かれるに決まってるし、書類に「東京五輪ボランティアを経験」と書いてなければ大きなマイナスになるかもしれないと思わされるからである。「五輪のボランティアで外国の選手と話をする経験が出来て、英語の力が付いたと思います」とか言えなければ…。ま、それを「楽しかった」と思える人にはどうでもいいんだろうけど。
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