尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

死刑廃止集会と「マラー/サド」観劇

2018年10月14日 22時51分40秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 2018年10月13日(土)の記録。10月にも関わらず暑い日が続いていた。ようやく週末から涼しくなったが、ずっと曇っている。13日に「響かせあおう 死刑廃止の声」という死刑廃止の集会に行った。夜に国会前でキャンドル・アクションがあるということだったが、終了前に抜けてイタリア文化会館で精神障害者当事者による演劇「マラー/サド」を見に行った。

 10月10日は「世界死刑廃止デー」である。毎年その前後に死刑廃止の集会が開かれているが、ここしばらく行ってなかった。今年は袴田事件の再審却下オウム真理教死刑囚の大量処刑があったので、他のことに先がけて行こうと思っていた。アムネスティや日弁連、「袴田巌さんの再審を求める会」などのアピールに続き、安田好弘弁護士とジャーナリスト青木理氏の討論、ダースレイダーとDJオショウによる「Rapで歌う!死刑囚からあなたへ」と第一部は盛りだくさん。

 安田・青木対談は「オウム13人執行で時代はどう変わるか」と題されていたが、聞いていると「もうすでに変わっていた」ということかと思った。大きな反発もなく、それどころか大きな議論は何もなく、いつの間にか「そういうこともあったよね」になっていないか。これほどの大量処刑は明治末の大逆事件以来だというのに。麻原彰晃は「心神喪失」状態じゃなかったのか。法曹界ではそう思っている人がほとんどだというが、それなら「違法」な執行だったことになる。再審申請中、恩赦出願中の処刑は許されるのか。そんな議論がどこでも起きない。

 この集会に合わせて、「死刑囚による表現展」が開催される。「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」によるもので、今年が14回目。その公開選評が毎回第二部で、太田昌国氏の司会で、他に加賀乙彦池田浩士北川フラムの各氏が参加した。選考委員には他に香山リカ、川村湊、坂上香の3氏がいるが所用で欠席。それでも先の4人の顔ぶれは、知ってる人には超豪華である。別会場で絵画展が開かれていたが、死刑囚の描いた絵の澄明さにいつも驚かされる。

 選評会の冒頭で抜けてイタリア文化会館に向かった。集会の会場は星稜会館。ここは日比谷高校の同窓会が基になって作られたところで、日比谷高校の真裏。最寄り駅は永田町だが、実は初めてなので少し迷ってしまった。イタリア文化会館は九段下だから、地下鉄半蔵門線で2駅。これは雨じゃなけりゃ歩いていこうと思っていた。国会図書館や国立劇場など何度も来てるのに、どうもこの周辺は頭に入ってない。スマホを見ながら、国会図書館、最高裁、イギリス大使館、千鳥ヶ淵と歩いて、イタリア文化会館へ。ちょっと寒かったが、格好の散歩コースじゃないか。
 
 「マラー/サド」というのは、ドイツ人のペーター・ヴァイスの書いた戯曲「マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺」という恐ろしく長い名前の略称。これをイタリアのボローニャ市の実際の精神障害者たちが演じるというもの。イタリアで精神病院を廃止した「イタリア精神保健法」(バザーリア法)の制定40周年記念プログラムである。もちろんイタリア語による公演で、舞台上方に字幕が出た。無料公演で、満員だったのでキャンセル待ち登録をしておいたら数日前に入れるというメールが来た。

 1964年初上演で、1967年にはイギリスの有名な演出家ピーター・ブルックによって映画化された。日本では1968年に公開され、ベストテン5位に入っている。僕はその映画を学生時代にどこかで見て刺激を受けた。ジャン=ポール・マラーはフランス革命の指導者の一人で、ジャコバン派として恐怖政治を進めた。1893年にジロンド派を支持する女性、シャルロット・コルデーによって暗殺された。浴槽に入っているところを刺殺された姿はダヴィッドの絵に描かれ有名である。

 一方のマルキ・ド・サドはサディズムの語源となったことで知られる貴族作家だが、虐待や風俗破壊で何度となく刑務所や精神病院に入れられた。この劇は1808年、つまり暗殺事件の15年後にシャラントン精神病院で、その当時実際に入院させられていた(そして1814年にそこで亡くなる)サド侯爵が患者たちを演出して暗殺事件を再現するという趣向になっている。二重、三重の仕掛けをほどこして、革命と自由に関する対話がスリリングに繰り広げられる。マラーは革命と独裁を擁護し、サドは徹底した個人主義者としてマラーを批判する。

 基本的にはそういう構図の劇だが、今回は舞台が檻になっていて、始まる前の館長などのあいさつも鉄格子の向こうというのに驚く。その後もミュージカル仕立てで進み、皆の歌が素晴らしい。舞台奥には「革命万歳」「自由」といった字が書かれている。脚色・演出ナンニ・ガレッラとあるが、かなり脚色してあるように思う。1時間超で終わったけど、もっと長かったと思うし。様々な方向で演出が可能な劇なんだと思う。このボローニャ市の「アルテ・エ・サルーテ」という劇団の場合、明らかに「世界は変えられる」、イタリアでは精神保健のあり方を大きく変えられた、劇中の精神病院はこの国にはもうないというメッセージを感じた。

 上演後に観客との対話もあったのだが、1時からの集会に始まって7時過ぎとなると、もう疲れてしまった。今日は終わり。何を食べるか決めかねて、つい神保町まで歩いてしまってカレーを食べて帰った。さすがにテーマが重いので疲れたなと思った日だった。もうブログ書く元気はないと思って翌日に延ばした次第。「マラー/サド」の提出したテーマは今も生きていると思った。それは死刑問題にも共通すると思うし、インクルージョン(inclusion)ということを考えた一日だった。
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