尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

徳田虎雄、湯浅譲二、小原乃梨子、原田奈翁雄、山田宗睦他ー2024年7月の訃報①

2024年08月07日 23時02分58秒 | 落語(講談・浪曲)
 2024年7月の訃報1回目は国内の訃報。最初は徳田虎雄。7月10日死去、86歳。医療法人徳洲会を一代にして築き、衆議院議員を4期務めた。奄美諸島の徳之島出身で、弟が緊急治療を受けられず急死したことから医師を志した。大阪大学医学部を卒業後、1975年に「命だけは平等だ」の理念を掲げて徳洲会を設立。全国に70以上の病院があり、関連施設400を誇る日本最大の医療法人に発展させた。政界を志すが医師会と対立していたため自民党に入党できず、1983年、1986年に奄美群島区から無所属で落選。当時奄美は全国唯一の「一人区」だった。1990年に初当選。93年は一人区が解消され鹿児島1区、96年からは鹿児島2区で2回当選。しかし、21世紀初頭に筋萎縮性側索硬化症 (ALS)を患い、2005年の選挙に出ず次男毅が地盤を継いだ。2012年の選挙後に徳田陣営の選挙違反事件が発覚し、家族も逮捕された。虎雄は病気のため逮捕されず、事実上その後は社会的活動を引退していた。
(徳田虎雄)
 作曲家の湯浅譲二が7月21日死去、94歳。51年に慶大医学部を退学して音楽に専念、芸術家集団「実験工房」に参加した。音楽を「音響エネルギーの運動」ととらえてスケールの大きな作品を数多く発表し世界的に知られた。現代音楽のことはよく知らないけど、朝ドラや大河ドラマの作曲も手掛けている。『藍より青く』(73)のテーマ曲「耳をすませてごらん」(歌・本田路津子)を作曲した人。また映画音楽では『薔薇の葬列』『お葬式』などの傑作を手掛けた。文化功労者。現代音楽の賞として権威がある尾高賞を5度受賞した。最初が1973年で、最後が2024年だった。まさに半世紀に及ぶ活躍だった。
(湯浅譲二)
 声優の小原乃梨子(おはら・のりこ)が7月12日に死去、88歳。ラジオドラマの子役として活動を始め、やがて洋画の吹き替えやアニメの声優として活躍した。テレビや映画で「ドラえもん」ののび太役を1979年から2005年まで担当したことで知られる。アニメでは「アルプスの少女ハイジ」のペーター、「未来少年コナン」のコナンなど。洋画ではクラウディア・カルディナーレ、ブジッド・バルドー、ジェーン・フォンダ、シャーリー・マクレーンなどを担当することが多かった。役柄に何となく共通性がある。
(小原乃梨子)
 芸能界の訃報が多かったが、漫才トリオ「かしまし娘」の次女、正司照枝が8日死去、91歳。長女歌江は今年1月に死去、三女花江は存命。賑やかな歌謡漫才で人気を得て、66年に第1回上方漫才大賞。歌手の園まりが26日死去、80歳。60年代半ばに中尾ミエ、伊東ゆかりと「三人娘」を結成して人気を得た。ソロで「愛は惜しみなく」「夢は夜ひらく」がヒットした。63年から68年まで紅白歌合戦に出場。映画『夢は夜ひらく』などに主演している。
(正司照枝)(園まり)
 俳優では浜畑賢吉が2日死去、81歳。若い頃からテレビの大河ドラマなどで活躍していたので早くから名前と顔は覚えた。しかし、この人は劇団四季で多くのミュージカルに出た人である。特に『コーラスライン』では79年以来800回主演を演じた。94年に退団後は『ラ・マンチャの男』『マイ・フェア・レディ』などに出た他、2004年に大阪芸術大学教授となり舞台芸術学科長を務めた。また中村靖日が10日死去、51歳。90年代から市川準監督の映画に出演し、2005年の内田けんじ監督『運命じゃない人』に主演して注目された。テレビでも活躍し『ゲゲゲの女房』などに出演した。また50年代、60年代に東映時代劇でお姫様役で人気があった丘さとみが4月24日に死去した。88歳。片岡千恵蔵、中村錦之助などの相手役だった。その後はテレビでも活躍した。
(浜畑賢吉)(中村靖日)(丘さとみ)
 元広島カープ監督の阿南準郎(あなん・じゅんろう)が30日死去、86歳。プロ野球の広島、近鉄でプレーし70年に引退。好守備の内野手だったが、通算本塁打34本と選手成績は大したことがない。その後近鉄コーチを経て、広島のコーチとして75年の初優勝に貢献。86年に監督となり優勝した。88年まで3年間すべてAクラスで、山本浩二監督につないだ。監督通算203勝163敗24分け。監督退任後は球団本部長などを務めた。
(阿南準郎)
 径(こみち)書房を創業した原田奈翁雄(はらだ・なおお)が6日死去、96歳。筑摩書房の伝説的編集者で、「展望」「終末から」の編集長を務めた。78年の倒産を機に退職して、80年に径書房を創業し、山代巴、上野英信らの本を出版した。ここから出た本としては、山代巴『囚われの女たち』(全10巻)、『長崎市長への7300通の手紙』、石牟礼道子『十六夜橋』、吉岡紗千子『ロックよ、静かに流れよ』などがある。原田はやがて退社して雑誌「ひとりから」を創刊したが、今も径書房は残っている。顔写真が見つからないので、著書を代わりに。忘れられない出版社だが、訃報は小さかった。
(原田奈翁雄)
 哲学者の山田宗睦(やまだ・むねむつ)が6月17日に死去していた。99歳。ここまで長寿だと、正直存在を忘れられてしまう。ある時期、「敗戦」を忘却しないためとして鶴見俊輔、安田武と三人で8月に丸刈りにすることを続けていた。それで名前を知ったのが、この人が一番知られているのは、65年のベストセラー『危険な思想家』だろう。訃報でも触れられているが、要するに60年代半ばに起こった「保守回帰」を批判し、老大家を初めとして三島由紀夫、石原慎太郎、江藤淳などを批判したのである。江藤淳などは「安全な思想家」など不要だと言い放ったらしいが。僕はその時代は知らないので読んでもいない。70年以後は古代史や神話研究の本が多く、『道の思想史』『日本神話の研究』などを著した。また「日本書紀」の翻訳も出している。
(山田宗睦)
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