「フォークシンガー」の高石ともやさんが亡くなった。8月17日死去、82歳。スマホのニュースで見て驚いた。もちろん82歳の男性が亡くなっても驚くようなニュースじゃない。しかし、僕は2023年12月に行われた「年忘れコンサート」に行っていた。そこでは声量など特に衰えを感じさせなかった。この年忘れコンサートに僕は40年以上毎年夫婦で行っている。2022年だけは母親が入院中で危ないと言われていたので、チケットは持っていたが行けなかった。そのまま終わりだと嫌だなと思ってたら、2023年に行けた。そして元気なら2024年もあるのかなと思っていた。
「高石ともや」という名前は、昔は受験期になると「受験生ブルース」がラジオで流れていたから覚えたんだと思う。大学に入ったらそこは高石ともやの卒業した大学で、当時はクリスマス行事で高石ともやとザ・ナターシャセブンのコンサートが行われていた。まあ、そういうことで同窓生なんだと知ったわけである。その後、いろいろ経緯があるのだが、妻もファンだということで東京で毎年末にあるコンサートに行くようになった。当初は有楽町の読売ホールでやってたが、その後亀戸のカメリアホールに変わった。時間も昔は平日の夜だったが、次第に土曜日の昼間になった。仕事をしてたときも、何とか都合を付けて毎年行ってきた。
(CD「高石友也ベストコレクション」)
年忘れコンサートには、ある時期まで著名なゲストが出ていた。谷川俊太郎、永六輔、灰谷健次郎などは特に思い出にある。新内の岡本文弥もそこで聞いた。同じ「フォークシンガー」と言われる中川五郎、遠藤賢司などもゲストで来たことがある。コンサートでは毎年のように歌われる「街」「私の子どもたちへ」「想い出の赤いヤッケ」など定番の名曲も良いけれど、それ以上に一年を振り返る歌やトークが楽しみだった。東日本大震災の後で、被災地に行って感じたこと、それが心に響く。社会の移り変わり、世界の問題、著名人の訃報…いちいち感じ方に共感出来るのである。
(75歳でホノルルマラソン連続完走40年の日。2016年12月。)
本当に凄いと思うのは、毎年12月上旬に行われるホノルルマラソンに参加していたことだ。走り終えて、戻ってすぐにコンサート。本当に丈夫そうで、80歳を超えても声量はしっかりしていた。ある時期からマラソンを始めて、市民ランナーとして有名になった。日本初のトライアスロン大会で優勝しているので、単なる「市民ランナー」を越えているし、「君はランナー」という曲も作っている。多くのマラソン大会に招かれ、走るとともに歌ってきた。有森裕子の言葉で知られる「自分をほめてあげたい」はもともと高石ともやさんの言葉だった。そして妻に先立たれてから10年以上も元気で活動を続けたのは本当にすごいと思う。
(CD「陽気に行こう」107ソングブックCD版)
思い出はいっぱいあるが、少し音楽的に振り返っておきたい。高石ともや(当初は「高石友也」と表記していた)は「関西フォークの旗手」と呼ばれた。もともとは1941年12月9日(日米開戦翌日)に北海道雨竜町で生まれた。本名は「尻石」だから、これで歌手活動は出来ない。大学で東京に出たが、歌手活動は関西で始めた。その経過はなかなか波瀾万丈なのだが、ここでは省略する。「フォークソング」は要するに「民謡」だが、60年代にはアメリカのジョーン・バエズなどの「反戦フォーク」のイメージが強い。日本でも反戦集会などで歌う人が出てきて、その走りが高石友也や岡林友康だった。
(CD「高石ともやのファミリー・フォーク12曲集」)
ここで興味深いのは、高石友也の名前を使って「高石音楽事務所」が作られ、高石友也も岡林信康もそこに所属したのである。岡林が作って二人で歌った「友よ」は60年代の抵抗歌として金字塔だと思う。またザ・フォーク・クルセダーズや高田渡、五つの赤い風船など皆ここに所属して音楽活動を行ったのである。しかし、70年代になると高石ともやはアメリカに「フォークの原点」を求めて旅立つ。ピート・シーガーなどに学びつつ、さらにブルーグラスなどアメリカの「草の根」の音楽に触れて帰国した。そして福井県名田庄村(現おおい町)に住み、ザ・ナターシャー・セブンを結成した。(グループ名は住んでいた村から。)
そしてアメリカの歌を原語でコピーするのではなく、きちんと日本語訳を付け日本の歌として歌ったのである。また日本の民謡も歌うなど、独特の歌作りを行った。107曲をレコードにした「107ソングブック」は高く評価され、1979年の日本レコード大賞企画賞を受賞した。しかし、1980年に木田高介(元ジャックス)が脱退、直後に事故死、1982年にはマネージャーの榊原詩朗がホテル・ニュージャパンの火事で亡くなる。それらをきっかけにしてグループ活動が難しくなっていった。以後はほぼ高石ともやはソロで活動する。普通の意味での歌手と言うより、ランナーや市民活動の中で歌い続けるスタイルを一貫させてきた。
僕には歌手という以上に、個人的思い出がいっぱいあって語りきれない。授業で紹介した歌もあるし、辛いときに口ずさんでいる歌もある。何を書いて良いのかわからないが、取りあえず訃報を聞いて書いた次第。
「高石ともや」という名前は、昔は受験期になると「受験生ブルース」がラジオで流れていたから覚えたんだと思う。大学に入ったらそこは高石ともやの卒業した大学で、当時はクリスマス行事で高石ともやとザ・ナターシャセブンのコンサートが行われていた。まあ、そういうことで同窓生なんだと知ったわけである。その後、いろいろ経緯があるのだが、妻もファンだということで東京で毎年末にあるコンサートに行くようになった。当初は有楽町の読売ホールでやってたが、その後亀戸のカメリアホールに変わった。時間も昔は平日の夜だったが、次第に土曜日の昼間になった。仕事をしてたときも、何とか都合を付けて毎年行ってきた。
(CD「高石友也ベストコレクション」)
年忘れコンサートには、ある時期まで著名なゲストが出ていた。谷川俊太郎、永六輔、灰谷健次郎などは特に思い出にある。新内の岡本文弥もそこで聞いた。同じ「フォークシンガー」と言われる中川五郎、遠藤賢司などもゲストで来たことがある。コンサートでは毎年のように歌われる「街」「私の子どもたちへ」「想い出の赤いヤッケ」など定番の名曲も良いけれど、それ以上に一年を振り返る歌やトークが楽しみだった。東日本大震災の後で、被災地に行って感じたこと、それが心に響く。社会の移り変わり、世界の問題、著名人の訃報…いちいち感じ方に共感出来るのである。
(75歳でホノルルマラソン連続完走40年の日。2016年12月。)
本当に凄いと思うのは、毎年12月上旬に行われるホノルルマラソンに参加していたことだ。走り終えて、戻ってすぐにコンサート。本当に丈夫そうで、80歳を超えても声量はしっかりしていた。ある時期からマラソンを始めて、市民ランナーとして有名になった。日本初のトライアスロン大会で優勝しているので、単なる「市民ランナー」を越えているし、「君はランナー」という曲も作っている。多くのマラソン大会に招かれ、走るとともに歌ってきた。有森裕子の言葉で知られる「自分をほめてあげたい」はもともと高石ともやさんの言葉だった。そして妻に先立たれてから10年以上も元気で活動を続けたのは本当にすごいと思う。
(CD「陽気に行こう」107ソングブックCD版)
思い出はいっぱいあるが、少し音楽的に振り返っておきたい。高石ともや(当初は「高石友也」と表記していた)は「関西フォークの旗手」と呼ばれた。もともとは1941年12月9日(日米開戦翌日)に北海道雨竜町で生まれた。本名は「尻石」だから、これで歌手活動は出来ない。大学で東京に出たが、歌手活動は関西で始めた。その経過はなかなか波瀾万丈なのだが、ここでは省略する。「フォークソング」は要するに「民謡」だが、60年代にはアメリカのジョーン・バエズなどの「反戦フォーク」のイメージが強い。日本でも反戦集会などで歌う人が出てきて、その走りが高石友也や岡林友康だった。
(CD「高石ともやのファミリー・フォーク12曲集」)
ここで興味深いのは、高石友也の名前を使って「高石音楽事務所」が作られ、高石友也も岡林信康もそこに所属したのである。岡林が作って二人で歌った「友よ」は60年代の抵抗歌として金字塔だと思う。またザ・フォーク・クルセダーズや高田渡、五つの赤い風船など皆ここに所属して音楽活動を行ったのである。しかし、70年代になると高石ともやはアメリカに「フォークの原点」を求めて旅立つ。ピート・シーガーなどに学びつつ、さらにブルーグラスなどアメリカの「草の根」の音楽に触れて帰国した。そして福井県名田庄村(現おおい町)に住み、ザ・ナターシャー・セブンを結成した。(グループ名は住んでいた村から。)
そしてアメリカの歌を原語でコピーするのではなく、きちんと日本語訳を付け日本の歌として歌ったのである。また日本の民謡も歌うなど、独特の歌作りを行った。107曲をレコードにした「107ソングブック」は高く評価され、1979年の日本レコード大賞企画賞を受賞した。しかし、1980年に木田高介(元ジャックス)が脱退、直後に事故死、1982年にはマネージャーの榊原詩朗がホテル・ニュージャパンの火事で亡くなる。それらをきっかけにしてグループ活動が難しくなっていった。以後はほぼ高石ともやはソロで活動する。普通の意味での歌手と言うより、ランナーや市民活動の中で歌い続けるスタイルを一貫させてきた。
僕には歌手という以上に、個人的思い出がいっぱいあって語りきれない。授業で紹介した歌もあるし、辛いときに口ずさんでいる歌もある。何を書いて良いのかわからないが、取りあえず訃報を聞いて書いた次第。