波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

足跡      「友人」

2017-05-08 08:32:42 | Weblog
この年になるまで子供のころから今まで何人かの「交わりの友」と呼べる人が何人書いた。今でも年賀状や数年に一度の交信でつながりがある人も何人かいる。しかしその数も年々減ってきてわずかになってきた。そのなかに特に心に残っている一人がいる。
彼は若いとき同じ会社で働いたのだが、彼は純粋な技術屋であり、研究者でもあった。私が海外販売を始めたときいち早く賛同しなんでも協力するから一緒に仕事をしようと意見が一致してそれ以来の交わりの友となった。台湾の会社から技術援助g来て日本の会社を辞めてまでその会社へ協力をしたのも彼であったし、世話になった会社を辞めて独立してkらも園会社のために中国、香港と希望通りの技術指導をしてそのにんむをはたしていた。私は従来の会社で定年を迎えたが、かれは独立してその技術を活かしながら事業を続けていた。
どんなに経営がよい状態でも悪い状態でも「われに七難八苦を与えたまえ」といった山中鹿之助の言葉を心情に質素に、園事業を堅実に進めていたが、その内容はかなりかこくなものだったのだろう。かつて私と同じ会社で仕事をしていたときにも、かなり危険な化学物質を扱うことがったが、その取り扱いに水から自分の手で実験しその影響を確かめた上で指示をするという念のいれようであったこともあり、
そのエピソードは知る人ぞ知るところでも会った。
事業を息子に譲り自分は研究室のようなところで日々好きな実験をしながら私が訪ねてゆくと「今度こんなものができないかとたんしみにしているんだ」と子供のように目を輝かせていた姿を思い出す
先日息子さんからの電話で一月から入院していて呼吸器をつけて意識もままならない状態になっているとの事、早速見舞い状は出したものの会うこともできず、心を痛めるばかりである。三度の心臓手術をはじめ満身創痍であったことはしっていたが、やはり機能を持たせる子tが難しくなったのかとその運命を認めざるを得ないのかと心を痛めるばかりである。
贅沢を聞いたこともなく特別な趣味、遊びも聴いたこともない学者肌の友人である。誠実でいつも私を先輩としてけいいをはらってくれていた。(年は一歳ちがい)
人間はその一生における仕事を終えると生命力はそこで終わりを告げるのであろうか。とすれば彼もまたこの世における仕事をやり終えたということか。もおいちど会って語り合いたいと願いながら

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