波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに   「神の席」

2015-03-19 11:35:45 | Weblog
イタリヤのある地方では食事の度に一人分の空席を作る習慣がある。それは通りがかりの人やお金の無い旅人などが気楽に一回の食事が出来るようにするためだそうである。
しかしそれは実は「空席」と見える座席に座っているのは人間の目には見えない「神の席」として供えてあるのだといわれている。新聞にこんな記事が載っていた。そういえば
前にもボリビヤ地方にも似たような習慣があると聞いたことがあったが、日本では貴意いたことは無い。然しわが国でも毎日「炊き出し」の準備をしてNPОの人たちが奉仕をしていて日本の文化に即して行われていると考えていいだろう。
私の日常生活でも男の独り身を案じて、時に触れ折に触れて援助をしてくださったご婦人のおばあちゃんがいた。若いときから面倒見が良かったせいもあり、若いパトロールの警察のお兄ちゃんも良く休憩に利用していたと聞いていたが、今では年もとりたいしたことは出来なくなったが、時折、電話で鍋とタッパをもって来い
と呼び出しが来る。そんな事が続くともらうだけではすまなくなり、三度に一度は好きな缶ビールを手土産に買って御礼をするようになり、「助け合い」の隣人関係が出来ていた。「神の席」ならぬ「神のプレゼント」とでも言うのだろうか。
毎日、誰か彼かがそのばあちゃんを訪ねて愚痴をこぼしたり、相談をかけたり、近所の噂話を聞かせたりと人が耐えることが無かった。そして帰り際には必ず、何かかにか
それが「お漬物」であったり、「おもち」であったり「お饅頭」であったりするが、
必ず手ぶらで返すことは無かった。
性格かもしれないが、世の中にはそんな人もいるのである。僅かなものでも気持ちを表す好意はその交わりを深くしたことであろう。
まったく逆に誰が来ても用件だけで玄関払いをする人も多い中で、暖かさをこんな形で味わって帰ることが出来ることは幸せな気分になるものである。
近所の掃除をしている人に夏の暑い日に「麦茶に氷をいれて」差し出してあげるのも
気持ちを形で表すことになる。それが気持ちをつなぐのである。
「神のせき」は何時でも、何処でも出来るのである。
それはその人の心の中に作る気持ちで決まるのである。