波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに

2012-04-11 10:34:58 | Weblog
クラスの友達と言うものは、幾つになっても変わらないものらしい。クラス会を数少なくなった今でも守っていると言う友人の話を聞いた。もう80歳になるのだからそろそろ終わりにしてもよさそうに思うのだが、残り少なくなった親しい友達だけで
続けているのだ。しかし寄る年波には勝てず、此処三年ほど計画しては流れ、計画しては流れて実現しないでいる。
幹事役の一番元気の良いA氏もさすがに「もう無理だから止めよう」と言うのだが、どうしてもやりたいという人がいて
今年も神楽坂で集まろうと言うことになった。ところが千葉の館山から出てくると言う老女から「近ければよいんだけどね。
遠いからどうしょう」と言い出した。東京までが遠く感じて、出てくるのが億劫らしい。分からないでもないがそれなら最初から言わなければいいのに気持ちだけは熱く燃えるものがあるらしい。
事ほど左様に歳を取るごとに気持ちだけが先立ち、体が言うことを利かなくなるのだから出来ることは出来るうちにしておいたほうが良いようだ。果たしてこのクラス会、三年目の正直となるのか、幻のクラス会になるのか見ものである。
私も最近は一人でマイペースで生活することに慣れて、あまり出歩くことに気が向かなくなってきた。それでいて話がしたくないわけではない。時々には自分の考えや思いを聞いてもらいたいと思うときもあれば、色々と世間のことを聞いてみたいこともある。人はやはり誰かと話したり、聞いてもらったりしながら生きていくものかも知れない。
しかし、本当の気持ちはどうなんだろう。自分自身が納得し、満足するとはどういうことを言うのだろうかと自問自答することがある。全ては心の平安であり、充足にあるとは思うがそれはどのようにして得られるのだろうか。
そして一日を過ごす中で無為に過ごすのではなく、僅かでも充たされる思いで何かを得られればと思わざるを得ない。
今日という日を精一杯生きることを考えなければいけないのだとも思う
我が家の庭に植えた「木蓮」数年花をつけてくれなかった。もう駄目かと諦めかけた今年、見事に花をつけて咲いてくれた。
そして、「山吹」も今年は黄色の可愛い花を咲かせてくれている。
その一つ、一つは僅かなものだけど、誰がどうすることも出来ない造作であり、神からの贈り物であると思わざるを得ない。