波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

オショロコマのように生きた男  第61回

2012-01-07 09:54:23 | Weblog
池田は気楽に話しているが、自分自身のことではないからという安易さもあるのだろう。しかし当人にしてみれば、新しい人間関係の中に入ってその環境にすんなり溶け込めるかどうか、とても自信がなかった。それは何回経験しても慣れるというものではなく、また自信ができると言うものでもなかった。その度に緊張感と不安の中に置かれるのだ。
出来れば落ち着いて他の事を考えず仕事が出来る環境を望んでいたのだがと悔やむ思いが強かった。
「分かった。心配してもらってありがとう。君に紹介されたことで君の顔をつぶすわけにはいかないから、挨拶には行って来るよ。」何杯めかのハイボールで少し顔も赤くなり、元気になったような池田は「よろしくお願いします。私からも電話しておきますから」と言うと「まだ少し片付け物もあるので」と出て行った。
まだ会社へ帰って仕事をするのかと、大変だなあと思いやりながら宏はその背中を見送ると暗くなった道を駅へと急いでいた。
N製作所は栃木にあった。宇都宮に近いと言うことで人手を集めやすいのと、東京から100キロ圏内ということでこの辺にもたくさん工業団地が出来ていた。最初の面接に出てきたのは松山と言う定年が近いような年配でずんぐりむっくりと、小太りの男だった。体型的にもいかにも一癖ありそうな人物であった。
池田から大体の話は聞いている筈なのに、結構細かくくどくどと聞いてくる。聞いているうちに感情が高ぶってくるのをおさえながら一つ一つその質問に答え、これからこいつと暮らすんじゃあ気が重いなあと思いつつ、持ち前の開き直りも顔を出す。「私の出来ることは大したことではありませんよ。お役に立てるかどうか自信もないので、あまり期待しないでください。」
と余計なことまで口走っていた。「まあ、まあそれはそれとして何しろこちらは専門外の仕事なので助けてもらいたいと思っているんですよ。」こういう猫なで声で話すのが一番信用できないと宏は経験上ますます警戒心を深めていた。
それから話は本社が大阪で本業は某自動車会社の部品を製造しているとか、待遇は悪いようにはしないとか、住むところは社宅がなくてあまり良いところではないが確保してあるとかくどくどと説明し最後に「上司に今日の話を報告して後日ご連絡します。その節はよろしく」そんな言葉を適当に聞き流して宏は会社を出た。
これはたぶん駄目だ。それがこの日の実感だった。どっちでもいいや、駄目ならまたどこか当ってみるしかない。何時の間にか
最悪の状態をいつも覚悟できる習慣が出来ていた。

      思いつくままに

2012-01-05 09:25:29 | Weblog
今年は「喜寿」の歳として迎えることになった2012年である。とはいえ、何も変わることは何もないのだが、何か自分の中に
節目としなければの気分がある。それはこれまでの人生を振り返り、数々の思い出と交わりの中に感謝の思いを強く感じたことである。
幼児のときに二度の生命の危機があり、母から「あなたは神によって救われた」と言われたことは今も忘れられない。
青年時代は厳しい家庭環境の中で(軍隊生活同様)育ち、成人へと進んだ。結婚もその延長の中で行われ、私自身の意思は反映せず、父母の言いなりのまま家庭を持ったのだが、一度は半年もしないうちに離婚と言う結果に終わり、再婚の妻とは20年ほどの間に二児を設けもうけ幸せな家庭を築けると思っていたら妻は不治の病にかかり、帰らぬ人となった。
男手一人で子どもを見ることは難しかったが、思いがけず一人の姉妹(ナイチンゲール的存在の人)が妻の病気のときから献身的に支えてくれて、助けられ二人とも立派に成長して家庭を持つことが出来た。
しかし自分自身の内面的道程は紆余曲折しながら迷走を続けていた。何処へ向かって、何処は行こうとしているのか、その目的も一人の人間としての存在感、確立は何もなかった。
サラリーマンを定年で終わり、自分を支えていたものを失ったとき初めて自分の無力を知るところとなった。それから本当の意味の「自分探し」「生かされているものの意味」を考え始めたと言っていい。
しかしその事を意識し始めるまでには時間が必要であった。自分自身の環境もすっかり変わった。ある意味自分を取り巻く状況が無くなってしまったと言うことだ。
そして荒野の只中にたった一人で立たされたかのような環境の中で啓示を与えられたのかもしれない。
私はそのとき初めて人間として生かされてきて「生きる」と言うことがどんなに大切なものであり、どう生きるかを考えることを知らされたのである。
昨年は「めまい」などの体調不良などを経験し、健康管理をもう一度見直す機会を与えられた。これからの時間は今まで以上に
大切な時間になる。無駄に時間を過ごすことは出来ない。終わることのない人間追究の旅へ出掛けることになる。そして
窮める事の出来ない「人間のあり方」を考え続けていこうと思っている。
晴天の日差しを浴びながら、今日も課せられた予定を楽しんでいる。

オショロコマのように生きた男  第60回

2012-01-03 15:48:25 | Weblog
何不自由のない、むしろ優雅な生活をして成長し立派な両親に育てられ、会社まで設立してもらい社会人としてスタートした男に何があったのか、宏には想像も出来なかった。池田や野間が活躍していた頃はまだ順調であった。二人が抜けたことの影響もあったかもしれないが、その後のことを二人とも知らないでいたのだが「私も辞めてから会社のことはあまり立ち入らないようにして
いたので、詳しいことは知らないですけど今は後から入った内川が中心になった仕事をしているらしいんですよ。「知らないなあ。」
「それで木梨はどうしたの。」「それがね、台湾の仕事が始まって通訳や処理を任せていた女性がいたでしょう。」「ああ、それは聞いていたけど。」その女性とねんごろになって、台湾へ移ったらしいんですよ。」「だって、彼は結婚して子供もいるじゃないか」「いや、それはそうなんだけど、」「まさかそのまま帰ってこないって言うことじゃないだろう」「いや、それが向こうでその女性と暮らしていて、子供もいるらしいですよ。」「おい、おいそれは穏やかじゃないな。本当なのか。」「私も話だけですからね。にわかに信じられないんですけど。」「驚いたね。そんな事があるのかね。それで会社はどうなんだ。」「私たちがいた頃の人たちは殆どいなくて、内川が仕事があるときだけ人を集めて個人の下請けみたいに仕事を続けているらしいですよ。事実上はクローズ状態でしょうね。」「そうか。分からないものだな。結局言ってみれば素人集団でスタートしてブームに乗って、一時期会社は成長したけど長続きしなかったと言うことか。私は辞めたくてやめたわけじゃなかったけど、T社の木村さんへの義理があって辞めたけど、そして君も私が呼んでしまっていなくなったわけだけど、その時期が分岐点だったかもしれないね。」
宏は今更ながら、人生の移り変わりを目の当たりにする思いだった。
「ところで今回の話はどういうことなの。」やっと本題に戻った。「つまり、N製作所としては本業ではないH社からの仕事を
専門に任せられる人間を探しているってことらしいですよ。それでマグネットに詳しい野間さんを推薦したいと思っているんですが、どうですか。」「知らない会社じゃないけど、俺で出来るかな。」「野間さんなら大丈夫ですよ。そういっちゃあ悪いけど、
もう何社か経験済みですものね。」池田にしては珍しく皮肉っぽい言い方だった。しかし今の野間にはその池田の言葉も、あまり
きにならなかった。そんなことより現在に置かれた自分の立場とこれからのことを、自分なりに想像していたからだ。