波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

オショロコマのように生きた男   第66回

2012-01-24 10:14:36 | Weblog
オショロコマという魚は元来北海道の河川に棲息する魚で多くは河川残留型とされ源流から河口までを往来するのだが、中には
降海して海へ行ったまま帰ってこないのもいるのだ。それはまるで宏の行動を見ているようで、どうやら宏は降海型で川には帰って来ないのかもしれなかった。N製作所の居心地の悪さもあってか、この話に乗る気になったらしい。今の仕事にもう一つ力が
入らないことも原因のひとつだった。それは自分の思い描いてきた仕事につながっていないこともあるし、追い続けてきた仕事でもなかった。
さりげなく松山のところへ出向いた。「実はちょっとお話したいことがありまして」と切り出すと、松山も何となく空気を察したと見えて「野間君、じゃあこっちの部屋へ」と何も言わせないで、応接室へと手招いた。
「何だね。何か不満でもあるのかね。それとも何か必要なものでも出来たかな。」何も言わないうちから、心当たりでもあるのか、自分から切り出した。「いや、そういうわけじゃあないんですが、」「やっと落ち着いてきたところじゃないか。これから色々と仕事を頼もうと思っていたところだが」仕事をさせると聞いて少し気持ちが動いて「えー、そうなんですか」とここで
一呼吸をおき、言葉を選んでいた。そして会社を辞めたいと切り出すと、予想していたように「それで、このあとどうするんだい」「別に当てもあるわけじゃないんですが、今の仕事は私には向いていないような気がして」と言うと、「俺もそう思っていた。何れ君にふさわしい仕事を頼もうと思っていたんだ。」と如何にも分かったようなことを言っている。
本当は松山の下でこんな仕事をしている事に飽き足らないのだと言いたいところだったが、それは面と向かって言えるわけはなかった。宏は仕事はともかく和子が小山と所帯を持って幸せに暮らすようになったのを確かめて、此処での自分の仕事が何か終わったような気がしていたのだ。
そして心の片隅に自分の仕事を追い続けたい。それが今の仕事ではないことを直感的にずっと感じていたことも事実であった。
しかし、この場で松山に本当のことを告げることは出来ない。自分がいても居なくても良い人間であること、そしてこれから
この仕事を続けていく人たちの心を傷つける必要もなかったのである。
「それじゃあ、お疲れさんでしたといったところかな」と松山は諦めたように静かに笑った。