波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

     思いつくままに

2011-05-18 09:33:07 | Weblog
「風薫る季節」と言われる5月を迎えている。半ばを過ぎるとその感じが一層深まる。
何気なく言葉として覚えていたが、庭に立って花の手入れをしながら不図、花の香りを感じた時「そうか、5月の風はたくさんの花の香りを一杯に膨らませて運んでいるのだ。
だから風が香るように感じることが出来るのか」と今更のように思うと、その風が一層沁みるように身体に感じることが出来た。
モッコウバラ、沈丁花、藤の花、チューリップ、その他のたくさんの花がいっせいに花開き、その美しさを競う姿は一年に一度のこととして大切にその感動を享受したい。
若いときには、その日が何かに追われているような忙しさの中にあって、その日に何があって何をして過ごしたか、そしてその事は本当に満足できたものか、どうか何も考えられない時間の連続だった。しかし年齢と共に時間の過ぎていく時間が遅くなってくると、その内容も変わってくる。すると人生が見えてきて、時間を大切に思うようになる。
その日一日を自分の納得のいく時間で終わりたい。何をしたか、何が出来たか、そしてそれは自分の満足できるものであったか、そんなことを考えるようになる。
それは内容ではない。どんなにささやかな人の目には見えないようなことであっても、
自分がこの世に生かされ、生かされて用いられたことへの感謝のような思いでもある。
人間はつくづく不思議なものだと思わされるときがある。それは自分が信じられないようなことを考えたり、行動したり、口にしたりするからだ。言って見れば真っ直ぐ正しく歩いているつもりでも、振り返ってみるとそれは真っ直ぐではないことに似ている。
砂浜を真っ直ぐ歩いたつもりで歩いて、後ろを見てみるとあちこちに振れながら歩いた足跡が残っているのを見るのと同じように。
また、一日の時間を同じ気持ちで過ごせないことでも分る。いろいろな問題、いろいろな場面ごとに気持ちが変わり、そのたびに自分が変わっているのが分る。
その根底には何時しか無意識に自分中心の自分がいる。つまり自分が一番正しいと思うことが自分を動かしているのだ。
この世において人との関わりをやめるわけにはいかない。その関わりの中では例えどんなに信頼できる相手であっても打ち明けることが出来ないこともある。その中には自分だけが背負い、人に背負わせてはいけないこともあることを知らなければならないこともあるのだ。
人間は結局のところ、孤独な存在かもしれない。それが何であるかを探し求めて生きていくことになるのだろうが、孤独の影が深い人こそ、ある意味人生を深く生きているのかもしれないと思うことがある。