波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

波紋   第17回

2008-08-26 10:35:32 | Weblog
小林の勤めている会社の本社は岡山にあった。創立者が鉱山から発掘される鉱石の工業化を思い立ち、県内に工場を作ることを計画し始めたのである。その歴史も古く、大正の末期とのこと。小林の父が創立者に認められ、創業当事から東京の店を任されたことから戦前、戦中、戦後と二代にわたって任されている。
本社の役員は専務の小山をはじめ、皆、地元の人たちであり、又姻戚関係者であった。事業の内容は中山の勤務している会社とほぼ同じであり、同業である。
小林は松山の採用について本社に当てて稟議書を書いた。「東京営業所は現在、私も含めて3名です。現状ではこれで充分ですが、今後の拡大を含めた発展を望むならば、それなりの人員の確保、そして準備を要します。すぐの戦力としてではなく、将来のためには充足は必要と考えます。幸い、経験もあり、業界にも精通していることだし、余分な時間を避けることが出来ます。よろしくお願いします。」
本社側は一度会って話をしたいので、本社へ出向くように頼んで欲しいとのことで回答があった。
小林は早速、中山に電話をして、そのことを伝えた。「内定したよ。一度当人に岡山まで行ってもらうけど、採用は間違いないと思う。」
中山は「ありがとう。これで肩の荷が下りたよ。君には感謝するよ。」と嬉しそうであった。程なく松山は岡山へ行き挨拶が終わった。
本社からは小林に「君に一任するよ。しっかり指導を頼む」とあった。
松山和夫、30歳、10年ほど、勉めたT社を退職、N社東京営業所勤務となる。
その頃、中山もT社を退職、U商事を立ち上げ独立事業をスタートさせていた。
小林の責任は一名の増加をみて、重くなった。彼の立場は役員ではなかったが、東京の営業の責任者であり、(大阪にも営業所は会ったが)その重要性は東京のほうが大きかった。月に一度の営業会議、製販技術会議とあり、会議の中ではその説明、問題点、今後の戦略、とかなりの時間話すことになるが、小林はその中で、自信と、責任を持って説明を行った。
岡山ではもの作りが主となるため、営業面ではあまり口を出すことも無く、ことは通ることが多かったが、それだけ責任は付いていたのである。
会議が終わると、夜は懇親を主とした会食になる。田舎のことなので、この時間が楽しみであり、いろいろな意味で発散の時間となる。時にはマージャンになることもあるが、唯一の交わりの場でもあった。
会社は従業員が100名足らずの規模であったが、あまり争議になるようなことはなかった。

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