波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

 オショロコマのように生きた男  第97回

2012-05-11 10:41:26 | Weblog
こんな調子が続けば退院も近いし、仕事も少しはできるようになるかも知れない。そうなれば運転は出来なくても外出が出来て行きたいところへも行ける。環境も変わり元気も出てくるだろう。宏はそんな事を期待して病院での生活を我慢しながら過ごしていた。そんなある日、突然順子が子供を連れて病院へ見舞いに来た。驚いたが暫くぶりの再会に思わず涙があふれてくるのを止めることは出来なかった。どんな事情であれ共に生活し仕事をしてきた。それは久子や家族とは違う感情ではあっても、その愛情は純粋な人間愛に通じる触れ合いであった。三人はそっと病院から出て近くのレストランへ行き、近況を語り合うことが出来た。短い間ではあったが群馬での生活は宏にとって生まれて始めての落ち着いた生活であったし、トレッキングを楽しみ、本当の家庭的な愛情のようなものをそこに求めながら育てていたのかも知れなかった。
若いときから家を離れ、仕事と言う自分の夢を追い続けていた宏にとって家庭という母体はなかった。千葉へ帰り自分の工場を持ってもそんな感情は生まれてこなかった。しかし、不思議に此処での生活に今までに覚えなかった本当の人間としての気持ちに立ち返っていたのかも知れない。
「今は何もしてやれないけど、元気になったら杖をついてでも会いに行くからね。元気でがんばっていてくれ」そういうのが精一杯であった。「あなたの元気な姿を一度見て安心したかったの。あのままでは不安でとても落ち着かなかったわ。でもこれで安心したわ。私のことは心配しないで二人で何とか頑張って待っているわ。」そこには言葉ではない本当の真心が表れて
お互いに通じていたし、それで充分であった。多くの言葉は必要なかったし、お金でもなかった。
宏は二人を見送ると何故か急に心が静かになり、ほっとした気持ちになった。何か心にかかっていた錘が取れたような、平安がそこにはあった。
それから数日して退院の日が検討されるようになった頃、突然体調が変化した。発熱である。始めは風邪かと診断され手当てが行われたが、それは頭からのものではなく、内臓に原因があった。検査の結果肺炎と診断され治療が始まった。
何かの合併症なのか、院内感染によるものか、その発症原因は不明であったが宏の容態ははかばかしくはなく、経過していた。

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