波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

     思いつくままに

2011-04-13 11:06:50 | Weblog
「失礼ですが、お幾つですか」「いやー恥ずかしいですが、もう70歳を過ぎました」
そんな会話が聞こえてくる。若い人はあまり年の話はしないものだが、年齢を増すごとに年のことが気になる。幾つになっても若さを求め元気でいたいと思うのは当たり前だが、
何時しか年を重ね衰えていくのだ。
肉体は兎も角、それでは頭の方はどうなのだろう。それだけの時間を過ごしてくれば
それだけ知識や体験が豊富になり、人間としても幅や奥行きが出てきて、それぞれに
人間味と言うか味が出てきそうなものである。しかし実際はどうだろうか。自分自身のことを考えてみても、ただ我慢ができなくなり、それだけ身勝手になっている自分を見ることになる。こうした錯覚のような感じは若いときからずっと続いていて、二十歳ぐらいのときは40代50代の人は物事を深く難しく考えていて行動していると思っていたが、実際その年になってみると、意外と単純に浅くしか考えていないことが分った。
そして60代、70代と年齢を重ねたら、次第に落ち着いてきて、若いときには気が付かなかった高邁なことに気付くようになるものだと思っていた。
しかし、実際は深く高邁な精神を持ち合わせるどころか、身勝手で自己中心な自分になっていることに気付いていないことが多い。
年をとってきたことで自分が人よりも偉大だと思われたいとか、馬鹿にされたくないとか、そんな思いが強くなっている。
「年をとる」と言うことは「年を取る」つまり年を減らしていくことだと考えてみたらどうだろう。減らしていくことで(つまり子供かえっていくのだ)と言う考え方で
自分を見失わないようにしていく方が間違いない生き方が出来るかもしれない。
経験してきたことや身につけたことや耳学問で、知ったかぶりをする老人が多い中で、反対に「そうでしたか」と、今まで身につけてきたことをもう一度習い直す気持ちで
話を聞き、やり直すことの方が間違いないような気がしている。
その事が「誕生日」を迎えるごとに自分を祝い、自分を生んでくれた両親を思い、
感謝することが出来るのではないだろうか。遅ればせながらお彼岸に出来なかった墓参をしながら、そんなことを考えてみた。
今年は桜も例年より遅く、少し強い風に吹かれてちらり、ほらりと舞う、そしてたんぽぽや土筆をみながら春を満喫することが出来た。