「入広瀬村」は新潟県魚沼市でほぼ福島県との県境に近い所だ。この度の震災の影響は表だっては無い、関越高速道小出インターを降りて国道252号線を一時間程北上し目的の場所は民宿「休み場」以前は「休場」(やすんば)と言ったが今は地図を見ると「休み場」となっている。タイトルの写真は「守門岳」
写真は「入広瀬村」の中心部少し手前に在る「鏡ヶ池」の道の駅、此所で「昼食」に「ごっぽうそば」なる物を食べましたが、そばのつなぎに山ゴボウを入れるそうで、コシの在る手打ちそばで写真の建物の入り口にそば打ち用の建物が見えます。
現地待ち合わせで30分程の遅れで「休み場」に到着。写真左上は民宿から「破間川」(あぶるまがわ)上流方面を撮した所「破間川」の源流は守門岳、浅草岳などからの流れを集めやがて魚野川となり信濃川に合流する。写真右は民宿裏に在る田んぼに居たアマガエル、すでに体色が黒くなって居た。写真左下はワラビの新芽、写真中は近所の田植え風景、写真右は大きくなったウド、これ位大きくなると硬くて食べられ無い!
「破間川」に沿うように村の道を歩きながらワラビ、蕗などを採りながら歩きます。正面に雪形が残る守門岳、右手に浅草岳を見ながらのんびりと行きます。写真は「浅草岳」
民宿「休み場」に近い田んぼに「六地蔵」が在りました。望遠レンズで撮りましたが更にトリミングしてモノクロ仕上げにしました。村の古老に聴いてみないと、その謂われは判りませんが、数十年前、此所「入広瀬村」は「山菜王国」として売り出しましたが多分同時期、電源開発でダムなどが多く作られ村は可成り潤ったのでは無いかと想像出来ます。しかしそうした電源開発による予算で潤うのは一時!やがて村は衰退して行きます。主な産業がない過疎が進む村の悲しさかも知れません。 その昔は、雪深い大変な地域で悲しい村の歴史が在るのかも知れません。今、原発が大問題と成って居ますが村人の「本音」は原発やダムを好んで受け入れた訳では無いはずで、国の「電源三法」に寄る誘導政策でお金で地方自治を潰した様な物です。そんな村の歴史を、この六地蔵達は黙って見つめているようです。
話が少し脱線しましたが、写真は田んぼの畦に咲いていた「スミレ」ですが、何というスミレか素人には判りませんが紫色がとても鮮やかでした。
写真は民宿の直ぐ下に在る土手に生えるクヌギに絡んでいる野生のフジで、至る所に在ります。満開になるとフジの木と間違えそうになるくらい沢山の花が咲きます。
この日、宿の山菜料理を堪能します。山菜の種類は10種類ぐらいでしょうか?天ぷら、煮物、その他山菜に合わせた食べ方も在りバラエティーに富んでいます。蕗のとうとおろしのポン酢和え・・・とか、アケビの芽の卵掛けとか、天ぷらはウド、コシアブラ、ヤブレガサ、タラの芽、その他幾つか。忘れました。写真は山菜採りとは別行動でイワナ釣りのグループ(二人)が釣って来たイワナを唐揚げにして頂きました最後の2匹の写真が上手く撮れました。後はお酒が回りピンぼけ写真で使い物には成らずでした!(爆)
イワナを食した後、最後に手打ちそばで〆です。やはりこのそば切りも、つなぎにトロロを使って居るそうで。コシが在り「へぎそば」と同じような味でした。山菜ご飯も在りましたが、これ以上食べられず断念!
翌日は採った山菜の整理などをした後、帰り道「小出」インター近くにある、西福寺開山堂へ寄ります。曹洞宗赤城山(せきじょうさん)西福寺は室町時代後期1534年開山、開山芳室祖春大和尚によって開かれ、開山和尚と、曹洞宗開祖道元禅師をお祀りする「開山堂」は幕末1857年に二十三世蟠谷大龍(ばんおくだいりゅう)和尚によって建てられました。 この開山堂内部の天井、欄間、壁面の「大彫刻」は有名で、幕末の名匠「石川雲蝶」の大作です。彫刻に止まらず、絵画、漆喰細工、等が見られます。新潟県重要文化財指定となっています。
写真は名匠「石川雲蝶」による、「開山堂」は茅葺二重層、上層部は入母屋造り、唐破風の向拝を有する造りに成って居ます。
写真は西福寺本堂廊下に在る、「雲蝶」による「埋め木」で、板のひび割れや、節穴などを「雲蝶」が修理した物で50程の「埋め木」の跡が在るそうです。そのうちの一つ「小槌」の形をした物を載せます。 これで今回の日程は終了で自宅へ戻ります。帰りの関越道は順調で渋滞ナシでした、さーこれから自宅へ戻ったら山菜のあく抜きなど下処理が待っています・・・・・・・