く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<平城宮跡資料館> 夏の子ども向け企画展「平城京〝ごみ〟ずかん―ごみは宝―」

2015年08月08日 | 考古・歴史

【1300年前のごみを大公開! 生活道具からウンチまで】

 奈良文化財研究所の平城宮跡資料館(奈良市)で夏恒例の子ども向け企画展が開かれている。3回目となる今年のテーマは「平城京〝ごみ〟ずかん―ごみは宝―」。木簡や箸、匙、ほうきなど様々な生活道具をはじめ、鳥の餌入れ、トイレットペーパー代わりの籌木(ちゅうぎ)、さらにウンチまで多彩なごみ類が展示されている。9月23日まで。

     

 籌木やウンチ(上の写真㊧)があるのは最初の「あんな〝ごみ〟こんな〝ごみ〟」のコーナー。籌木の中には不用になった木簡を再利用したものも。ウンチは平城宮の役所の近くの穴から見つかった。それにしても1300年前のものがよくぞ残っていたなあとただ感心するばかり。同コーナーでは屋根を支える垂木の先を飾る金具(㊥)や花びらをかたどった釘の頭、かかとが磨り減った下駄、刃物を研ぐ砥石、果実の種、魚の骨なども並ぶ。

   

 「役所」のごみ捨て場の代表として取り上げているのがSK820と呼ばれる内裏北外郭土坑(一辺3.8m、深さ1.7m超)。この穴からは大量の木簡や土器、木製品、木炭が出土した。「鳥食入器」「鸚鵡(おうむ)鳥坏(つき)」と書かれた平たい土器(最上段㊨)は鳥の餌入れとみられる。裏に落書きが記された食器(上の㊧)は長年用途が謎になっていたが、最近になって双六盤だったことが判明した。箸(㊥)は全形が残るものだけでも300本以上出土。木炭(㊨の写真手前)は11キロ分以上見つかった。クヌギやコナラなどの良質の炭で、天皇の住まいの暖房や調理用と考えられている。

 「貴族」のごみ捨て場は長屋王邸跡の溝SD4750(長さ27m、幅3m)から出てきたごみ類を取り上げる。ここからは約3万5000点の木簡が出土したが、匙や曲げ物、針、鏝(こて)、琴の弦を支える琴柱(ことじ)、木ぐつ、文書箱などの木製品約1500点も見つかった。木を刳り貫いたくつ(下の写真㊧)は平城京全体でも5点しか見つかっていない。「お寺」のごみには西大寺の食堂院(じきどういん)跡から出土した巨大な貯蔵用土器や製塩土器などを展示している。

   

 最後の「天平リサイクル」コーナーでは様々な再利用の事例を紹介する。大きな渦巻き模様が描かれているのは平城宮の盾とみられる(㊥)が、これを逆さまにして組み合わせた井戸が見つかった。第一次大極殿前に埋められた配水管はもともと藤原宮の建物を支えていた巨大な柱を刳り貫いて作ったもの。奈良時代の役人は丸い形の硯で墨をすったが、位が低い役人は食事用の土器の底やふた、大きな土器の甕(かめ)の破片などを硯代わりに使っていたらしい(㊨)。日本人の〝もったいない精神〟は既にその頃から育まれていたというわけだ。

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<フシグロセンノウ(節黒仙翁)> 日本固有のナデシコ科多年草

2015年08月07日 | 花の四季

【別名「オウサカバナ」 関所があった逢坂峠に因んで】

 ナデシコ科センノウ属の多年草。センノウ(仙翁)は中国原産だが、このフシグロセンノウは日本の固有種。本州~九州の高原や落葉広葉樹の林縁などに自生する。草丈は50~70cmほどで茎が直立する。その茎の節が黒褐色を帯びるため「節黒」の名が付いた。

 センノウの名前は京都・嵯峨にあった仙翁寺に由来するといわれる。『大和本草綱目』(1708年)も「センヲウハ嵯峨ノ仙翁寺ヨリ出タルユヘ名ツクト云」と記す。1300年ごろ留学僧が中国から持ち帰って同寺で栽培されたらしい。フシグロセンノウは7~9月ごろ、茎の先端にセンノウの花色に似た朱赤色の5弁花を付ける。花径は5cmほど。花弁の先端は丸く、センノウのような切れ込みが入らない。

 別名「オウサカソウ(逢坂草)」「オウサカバナ(逢坂花)」。山城国(京都)と近江国(滋賀)の国境に関所があった逢坂峠付近で多く見られたことによる。田中澄江著『花の百名山』(1980年)は雲取山(東京・埼玉・山梨)を代表する花としてフシグロセンノウを挙げている。この花は茶花としても人気が高い。

 ただ、この花も目立つ野草だけに多くの地域で絶滅が懸念されている。秋田や鹿児島などでは既に絶滅したとみられ、千葉、石川、山口、愛媛、高知などでも絶滅危惧種や準絶滅危惧種として県のレッドリストに掲載されている。同属の日本在来種にマツモトセンノウ(別名ツクシセンノウ)やエンビセンノウなど。同じナデシコ科には「フシグロ(節黒)」という植物もある。同じように茎の節が黒っぽいが、こちらはごく小さい白花を付ける2年草。

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<ふるさとミュージアム山城> 企画展「踊る!南山城―おかげ踊り・花踊り・精霊踊り」

2015年08月06日 | メモ

【古い絵馬や歌本、踊り衣装、写真など約100点】

 京都府立山城郷土資料館(ふるさとミュージアム山城)で企画展「踊る!南山城―おかげ踊り・花踊り・精霊踊り」が開かれている。南山城地域には室町時代に流行した風流踊(ふりゅうおどり)の流れを汲む花踊りや精霊踊り、江戸時代後期に流行したおかげ踊りが今に伝わる。本展は踊りを描いた絵馬や歌本など古い資料を通じて、人々が踊りに託した願いや踊ることの意味を探るのが狙い。8月30日まで。

 

 『花踊り図絵馬』(上の写真㊧、部分)は約140年前の1872年(明治5年)に笠置町切山の八幡宮に氏子が奉納した絵馬。切山では雨乞いの願掛けで「ヒヤケ踊り」を奉納し、願いが叶うと花踊りを奉納した。絵馬には大勢の子どもたちが大太鼓をたたき、続いて団扇を持ったり花飾りを背負い腹部に締め太鼓を付けたりして踊る人たちを生き生きと描いている。この花踊りも1910年代後半で途絶えたという。

 花踊りは南山城村田山・南大河原でも古くから行われていた。田山花踊がいつ始まったかははっきりしないが、1794年(寛政6年)の花踊歌本が伝えられていることから江戸中期には行われていたとみられる。その歌本も複製を展示中。大正時代になって途切れたが、約50年前の1963年に復活。今では田山花踊保存会が毎年11月3日に地元の諏訪神社に奉納している(上の写真㊨、企画展パンフレットから)。ただ以前の雨乞い祈願の願解き(がんほどき)の意味合いはなくなり、今では家内安全と五穀豊穣を祈願するものに。

 

 おかげ踊りは伊勢神宮への集団参拝「おかげ参り」が流行する中で生まれた。1868年(明治元年)に木津川市加茂町岩舟の白山神社に奉納された『おかげ踊り図絵馬』(写真㊧)には多くの人々が輪になって整然と踊る様子が描かれている。おかげ踊りは一過性のブームだったが、この加茂町岩舟や井手町、城陽市、和束町では1960年代以降、地域住民の尽力によって踊りが復活し今に伝えられている。(写真㊨は城陽のおかげ踊り=企画展パンフレットから)

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<コバイケイソウ(小梅草)> 湿っぽい草原に群生する大形の高山植物

2015年08月04日 | 花の四季

【草丈1m・花穂20cmにも 全草に有毒成分】

 ユリ科シュロソウ属の大形多年草。本州中部以北と北海道の高山帯~亜高山帯の湿地に自生し群落をつくる。花が梅に、葉が(ラン科のシラン)に似たバイケイソウの小形版ということで「小梅草」の名が付いた。小形といっても草丈は60~100cm、花穂も20cmほどもある。高山植物としてはかなり大形で遠くからでも目立つ。

 花期は6月から8月ごろ。茎は直立し、その先の円錐花序に径1cm前後の白い小花をいっぱい付ける。葉は長さ10~20cmの幅広の楕円形。大群落をつくるのは数年に1度といわれ、花の多い当たり年と花の少ない年がある。別名「コバイケイ」。コバイケイソウはバイケイソウと同じく有毒植物。そのため長野県などでは「ハエドクソウ」「ハエコロシ」などとも呼ばれる。

 コバイケイソウは『花の百名山』(田中澄江著)で北アルプスの双六岳、『新花の百名山』(同)で会津駒ケ岳、『NHK花の百名山』(山と渓谷社)では中央アルプス宝剣岳を代表する花として紹介されている。伊藤啓子は著書『随想集優しい花々』でコバイケイソウについて「岳人を勇気づけ励ます花でもある」と記す。東海地方だけで見られる変種に「ミカワ(三河)バイケイソウ」。環境省のレッドリストに絶滅危惧Ⅱ類として登録されている。

 若葉は一見オオバギボウシ(山菜名ウルイ)やギョウジャニンニクにそっくり。そのため誤食による中毒事故が毎年のように発生、厚生労働省などでも注意を喚起している。有毒成分はアルカロイド系で全草に含まれ、加熱しても分解されない。高山に分布するため登山者による誤食が多いのが特徴だ。2002年春、富山の僧ケ岳で7人のパーティーが採取した山菜類を煮て食べた直後中毒症状を起こし、ヘリコプター2機が出動して病院に搬送される騒ぎになったこともあった。「小梅草行者白雲まとひ来ぬ」(岡田日郎)。(写真は愛知県のS・Eさん提供、白山で)

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<大和文華館> 「豊かなる日本のやきもの―縄文から江戸まで―」展

2015年08月03日 | 美術

【日本の焼き物の流れを辿る多彩な作品90点】

 大和文華館(奈良市)で日本の焼き物の流れを、時代を追って辿る展覧会「豊かなる日本のやきもの―縄文から江戸まで―」が開かれている。縄文土器に始まって古墳時代の埴輪、古代の須恵器、中世の焼き締め陶と施釉陶、桃山時代の茶陶、そして繊細に絵付けされた江戸時代の色絵陶器へ。それぞれの時代を代表する作品群を通して、改めて焼き物の変遷をじっくり味わうことができる。8月16日まで。

     

 展示品の中で最も古いのは縄文時代中期の「縄文大壷」。この壷は高さが76cm、口径が57.5cmもある。埴輪の「鷹狩男子像」は群馬県出土、「男子立像」は茨城県出土で、ともに重要文化財。「鷹狩男子像」は左手に鷹が止まり、腰に剣を差す。冠をかぶり髪を美豆良(みずら)に結っており、その優しい表情は一見女性にも見える。(上の写真は㊧室町時代の信楽焼「檜垣彫文壺」、㊨江戸中期の有田焼(柿右衛門様式)「色絵菊花文八角瓶」)

 奈良時代に入ると釉薬をかけた施釉陶が登場する。展示作品「二彩碗」は唐三彩を模したもので、白釉の上に緑釉をかけた薄手の碗。金繕(きんつくろい)部分に「松民補綴」の銘が入っている。小川松民(1847~91)は明治時代前半に蒔絵師として活躍した。中世になると各地で素朴かつ力強い締め焼き陶が次々に生まれた。会場には日本6古窯といわれる常滑、丹波、信楽、越前、瀬戸、備前の灰釉壷や茶碗、徳利などが並ぶ。

  

 桃山時代に入ると、茶の湯の隆盛とともに茶陶づくりが盛んに。歪んだ形や斬新な文様が好まれ、楽焼や美濃の志野、織部、さらに萩焼、唐津焼、高取焼などが生まれた。江戸時代になると高温で硬く焼成した磁器が誕生、同時に絵付けの技術も発達した。会場には初期伊万里や古九谷様式、柿右衛門様式の有田焼がずらりと並び、色鮮やかな色絵磁器が来場者の目を引いていた。

 色絵陶器を得意とし京焼の大成者といわれるのが野々村仁清。その作品「色絵おしどり香合」(写真㊧)は高さ5.1cm、長さ6.5cmという小さなものだが、その中に高度な技術が凝縮する。1657年作で、近衛家への献上品と伝わる。青木木米も京焼の名工の一人。「黒地色絵瓜桃文鉢」(㊨)は木米が金沢に招聘されて春日山窯を築いたときの代表作。木米は南画家としても活躍した。この作品では見込みに桃、側面の内外に瓜を配しており、大胆な構図の中に気品と温かみがあふれる。

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<デュランタ> 中南米原産、垂れ下がる小枝に青紫色の小花を房状に

2015年08月02日 | 花の四季

【「ハリマツリ」「タイワンレンギョウ」の別名も】

 クマツヅラ科デュランタ属(ハリマツリ属)の熱帯花木。デュランタの仲間には中南米を中心に30種ほどあるが、日本でデュランタという場合、「デュランタ・エレクタ(レペンスとも)」という種を指すことが多い。原産地はメキシコから西インド諸島、ブラジルにかけて。日本には明治時代の中頃に入ってきたという。

 属名のデュランタは16世紀の植物学者でローマ法王の侍医だったカストール・デュランテスの名前に因む。和名は「ハリマツリ(針茉莉、玻璃茉莉)」。頭の「針」はデュランタの仲間に、枝に小さな棘があることから。「タイワンレンギョウ(台湾連翹)」という呼び名もある。

 花期は6~10月頃と長い。日本で人気があってよく見掛けるのは「デュランタ・タカラヅカ(宝塚)」という園芸品種。濃い青紫色の花びらの周りに白い縁取りが入る。名付け親は静岡県磐田市の鉢花生産者「ジッポー」。青紫に白の覆輪花が、正装した袴姿のタカラジェンヌを思い起こさせるとして命名したそうだ。

 花色は青紫や藤色が中心だが、白花もあり「白組(アルバ)」などの商品名で流通している。「来夢(ライム)」は葉の色が明るい黄緑色で、観葉植物としても人気。デュランタは元々常緑だが、日本では多くの地域で秋~冬に落葉する。ただ沖縄など年中暖かい地方では常緑で、生垣としてもよく使われる。

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<山口市と雪舟> 代表作の国宝『四季山水図』を描いたアトリエ「雲谷庵」

2015年08月01日 | 旅・想い出写真館

【常栄寺には雪舟庭、瑠璃光寺にも肖像画や天の橋立図など】

 室町時代の画僧雪舟(1420~1506?)。備中(岡山県)生まれの雪舟は若くして僧籍に入り、京都・相国寺で修行の傍ら絵画を周文に学んだ。その後、当時「西の京」と称された山口に移り、守護大名大内氏の庇護の下で創作活動に励んだ。没年や亡くなった場所には諸説あるものの、永正3年(1506年)、創作の拠点だった「雲谷庵」で没したと伝わる。

 

 雲谷庵跡(上の写真)は山口市天花(てんげ)という優雅な響きを持つ地域の外れにあった。雪舟最高傑作の国宝『四季山水図』(縦約40cm、長さ約16m)もここで描かれたといわれる。雲谷庵を少し下った国道9号の歩行者用地下道に『四季山水図』を模したタイル絵が貼られていた(下の写真㊨)。原画は防府市の毛利博物館が所蔵する。

  

 雲谷庵は大内氏滅亡後、荒廃していたが、約130年前、大内時代の古材を集めて再建された。庵が立つ小高い場所からは西側の木々の間に国宝瑠璃光寺五重塔の上半分が見えた。瑠璃光寺の資料館には雪舟筆と伝わる作品などが多く展示されている。同寺開山から3世までの肖像画3幅や『天の橋立図』、ケヤキの大盆に仏画を描いた『雪舟盆』……。雪舟に私淑した雪村筆の『龍虎の画双幅』もそれらの横に並ぶ。

 

 瑠璃光寺から東へ徒歩40分ばかりの常栄寺には雪舟庭がある。大内氏29代大内政弘が雪舟に命じて造らせた池泉回遊式庭園。北側に枯れ滝、中央に心字池があり、その周囲に大小の庭石を配す。禅味あふれる日本庭園の代表作として国の史跡・名勝に指定されている。池の中ではちょうど睡蓮の白い花がいくつも咲いていた。庭を望む本堂の入り口で出迎えてくれたのは伝雪舟ともいわれる『群馬図』(下段㊧)。本堂内には雪舟の画風を受け継いだ「雲谷派」といわれる画家たちの手による屏風絵も飾られていた。

 

 

 雪舟庭とは反対側の本堂南側には昭和を代表する作庭家・重森三玲が築庭した「南溟庭(なんめいてい)」がある(写真下段㊨)。重森は常栄寺20世安田天山師からこう依頼されたという。「雪舟より良い庭を造られては困る……上手に下手な庭を造ってもらいたい」。築庭は約50年前の1968年、重森72歳のときだった。雪舟は大内氏の遣明船で中国に渡り3年後に帰国した。この石庭は雪舟が往復した大海原をイメージしたといわれる。

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