く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<奥の細道むすびの地・大垣> 記念館で約5カ月・2400キロの足跡を辿る

2015年08月18日 | 旅・想い出写真館

【黛まどか名誉館長のナレーションによる3D映像も】

 久しぶりに岐阜県大垣市の『奥の細道』むすびの地を訪ねた。「蛤のふたみに別行秋ぞ」。約5カ月の漂白の旅を終え疲れを癒した松尾芭蕉は、ハマグリの蓋と身にたとえて親しい人々との別れを惜しむ句を詠んだ。むすびの地、水門川の船町湊跡(下の写真)は国指定の名勝。そのそばにいつの間にか「奥の細道むすびの地記念館」ができていた。3年前の2012年春に開館したという。

 芭蕉が門人曽良を従えて江戸・深川の草庵を発ったのは元禄2年(1689年)の春。東北、北陸地方を巡って秋に大垣で旅を終えた。総距離約2400km。芭蕉が最初に大垣を訪れたのは貞享元年(1684年)。『野ざらし紀行』の旅の途中に俳友の谷木因を訪ねたときで、これを皮切りに大垣を計4回訪れている。船町湊跡の川べりには芭蕉と木因の2人の銅像が立つ。

   

 記念館内の芭蕉館では『奥の細道』を旅路ごとに区切って関連資料や映像で紹介する。会場入り口には自筆本(中尾本)や曽良本など「奥の細道」の主要本(複製)を展示(下の写真㊧)。芭蕉が船町湊から舟で下っていく別れの情景を再現したジオラマ(㊨)などもあった。AVシアターでは大型スクリーンによる3D映像で『奥の細道』を追体験する。新作という「出羽路編」を観覧した。「蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと」。名誉館長の黛まどかさんがナレーターとして芭蕉が辿った出羽路の風景や代表作などを紹介する。新しく「北陸路編」も制作中という。

    

  門人たちへの書簡などから浮かび上がる芭蕉の生身の人物像も興味深い。「翁は菎蒻(こんにゃく)を好かれたり」(許六のことば)。「拙者下血痛候て、遠境あゆみがたく、伊賀にて正月初より引込み居り申し候」(杉風宛て書簡)。芭蕉は出血性の痔疾に悩まされていたようだ。造り酒屋で門人の宗七宛て書簡では「から口1升、乞食(こつじき)申したく候」と辛口の酒1升を無心している。「身のいやしきを思へば、官女もかたらひがたし。心の鈍きを思へば、傾城(けいせい)もなを交はりがたし。もし妹背をなさむに、このおなごをなむ」(門人凡兆の『柴売ノ説』に引く芭蕉のことば)。もしも男女の語らいをするのなら、自分の身分からこの柴売りの小原女(おはらめ)がふさわしいというわけだ。

 

 芭蕉は大垣で旅を終わる少し前、敦賀に立ち寄って気比神宮に参拝した。その境内には芭蕉にまつわる像や句碑が多い。銅像(上の写真㊧)は中鳥居を挟んでちょうど拝殿の正面に位置する。その台座には「月清し遊行のもてる砂の上」という句が刻まれる。その昔、時宗2代目遊行上人が参詣者のため白砂を運んでぬかるむ参道を整備したという故事を耳にして詠んだ。そのそばには「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」など敦賀で名月を詠んだ5句が刻まれた大きな句碑。四国の石鎚山産出の青石で、横幅が4mを超える巨石には圧倒されるばかり。その裏側に「芭蕉翁杖跡」と刻まれた石碑もあった。

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