く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「命の輝き 若き遣唐使たち―国を背負い唐に渡った使節の実像」

2014年03月22日 | BOOK

【大原正義著、叢文社発行】

 1000年以上前の7~9世紀、唐の都長安を目指して遣唐使が派遣された。約260年間に合計17回。造船技術が未熟だった時代のこと、渡航はまさに命懸けだった。遣唐使の中には二十歳前後の若い留学生(るがくしょう)や学問僧も多かった。著者は序章に「困難を乗り越えて、命と引き替えに志を遂げた多くの若者たちがいた事実に、魂の揺さぶられる思いがする」と記す。

    

 10年前の2004年、中国・西安市で井真成(いのまなり)の墓誌が出土し公開された。井真成(唐名。日本名には諸説あり)は19歳のとき第8次遣唐使船で派遣された留学生。36歳のとき長安で没した。墓誌には死を惜しんだ玄宗皇帝が高位の役職を賜ったことなどが刻まれていた。当時、多くの日本人が唐に渡ったが「墓誌が発見され、その存在が確認されたことは奇跡に近い」。

 同じ第8次遣唐使船には井真成と同年齢とみられる阿倍仲麻呂も乗っていた。仲麻呂は日本人として初めて官吏登用試験「科挙」に合格し、玄宗皇帝に重用された。入唐15年後に第9次遣唐使船が渡ってきたとき、望郷の思いから帰国を申し出るが却下されている。これも異国人としては異例の出世を遂げ高位に昇りすぎたことが一因だったらしい。

 それから19年後、第10次の遣唐使船が入ってきた。仲麻呂は再度帰国の許しを申し出たところ、玄宗はようやく認めてくれた。「天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも」。仲麻呂が帰国船の船上で詠んだといわれる。ところが出帆後、暴風雨で船が安南(ベトナム)に漂着、仲麻呂らは捕らえられた。どうにか脱出して長安に戻ったものの、仲麻呂の帰国は結局かなわなかった。

 万葉集では遣唐使船を「四つの船」と呼んでいる。第7次から1度に唐に渡る遣唐使船が4隻になったことによる。朝廷には1船でも唐土につけばよいという考えがあったらしい。第10次では帰国船4隻のうち仲麻呂の船は遭難するが、別の第2船は順風に乗って九州・薩摩に漂着した。この船には後に唐招提寺を開いた鑑真が乗船していた。渡日は鑑真にとって6度目の挑戦だった。

 唐に渡った留学生や学問僧の中には唐の女性と恋愛し子どもをもうけた人も多いとみられる。阿倍仲麻呂と共に乗った船が遭難し帰国を果たせなった藤原清河には結婚した唐の女性との間に喜娘(きじょう)という娘がいた。清河没後、喜娘は「亡き父の国日本を一目見たい」と願い出た。これが皇帝に認められ、喜娘は第14次の帰国船で日本に向かい天草に漂着したという。

 遣唐使に選ばれることは大変な名誉だったが、既に地位や名誉のある人の中には命を懸けてまで行きたくないという者もいたようだ。航路が北路から南路になった第7次以降、仮病を使って辞任を申し出る人が目立ったらしい。最後の遣唐使となった第17次では病気を理由に拒否した小野篁が官位を剥奪され隠岐島に流されている。この第17次では往路復路とも遭難が頻発、4割を超える260人余が犠牲になった。

 614年に始まった遣唐使の派遣は894年、第18次の大使に任命された菅原道真の建議により廃止が決まった。だが、この間に先進国家だった唐から吸収したものは多い。国の内外で混迷が深まる中、1000年以上前に新しい国づくりのため海を渡った多くの若者がいたことに思いを馳せることも意義深いのではないだろうか。

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