く~にゃん雑記帳

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<帝塚山大公開講座> 「大名家の遊び―歌舞伎・人形浄瑠璃を楽しむ武士たち」

2014年03月16日 | メモ

【鈴木博子准教授「江戸屋敷で年に6~7回上演」】

 帝塚山大学(奈良市)で15日「大名家の遊び―歌舞伎・人形浄瑠璃を楽しむ武士たち」と題した公開講座(平成25年度科学研究費助成事業研究成果地域還元報告会)が開かれた。講師の鈴木博子・人文学部准教授は「江戸の大名屋敷では客の接待や家臣の気晴らしなどのため、平均して1年に6~7回ぐらい、歌舞伎や人形浄瑠璃が上演されていた」などと話した。

   

 その様子が屏風や絵画に残っている。江戸中期の画家・英(はなぶさ)一蝶の「四季日待(ひまち)図巻」(出光美術館蔵)には広間に仮設舞台をしつらえ人形浄瑠璃を上演した様子が描かれている。「日待」は日の出を拝むため酒宴などで夜を明かす古い習慣。図巻は英が釣りをして生類憐れみの令に反したとして三宅島へ島流しになっていたとき、江戸での華やかな日待の模様を思い起こしながら描いた。

 この座敷芝居は1670年代の場面とみられ、舞台正面の主賓や男性陣のほか、御簾(みす)越しに見る女性陣、舞台前の3本の燭台、火鉢なども描かれている。元禄期の1697年頃の作とみられる「歌舞伎遊楽図屏風」(今治市河野美術館蔵)には屋敷内の能舞台を使って、呼び寄せた歌舞伎役者が演じる模様が豪華な金地屏風に描かれている。

 こうした様子は古文書にも残されている。「弘前藩庁日記(江戸日記)」(1677年9月16日)には人形浄瑠璃を指す「操(あやつり)」の上演について詳細に書き記されている。客名などに続き「御女中様方へは浄瑠璃一段置きに御菓子出る。表御客様へは二段目に蒸し菓子、煮染め、香の物、御銚子、御肴二種出る」とある。

 越後村上藩主の「松平大和守(直矩)日記」(1660年4月3日)には歌舞伎上演後、役者と共に深夜まで酒盛りしたとし、末尾に「面白き事かぎりなし」と記す。「市川栢莚舎事録」(1769年5月)には2代目市川団十郎が「さる諸侯」から所望があり、再三辞退したものの繰り返し乞われ一座が屋敷に上がって演じるまでの経緯が詳しく綴られている。

 屋敷芝居はどんなときに行われたのか。鈴木准教授によると、客の接待や日待のほか、殿の誕生日、お盆、参勤交代で殿が国元から江戸に来たとき、江戸を離れるときなどに上演されたという。加賀藩の「御用番方留帳」(1699年11月13日)には座敷で上演された人形浄瑠璃に「都合七百七十五人、右、白洲見物……白洲見物も御菓子これをくださる」とある。大名屋敷内での歌舞伎や人形浄瑠璃の見物は江戸詰めの家臣たちにとっても大きな楽しみで、まさに家中挙げての一大レクリエーションだったようだ。

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