感激の花束
この一年は近年にない激動の年だった。
1月9日3人目の孫誕生、そして我が身内では前代未聞の20日程の早産ではあったが12月25日に4人目男子が1年しかも年を跨がず誕生してしまった。
「誰にも迷惑を掛けない」との事だっが、結局孫専科から不本意な孫専従に進展、止む無く46年間世話になったN**の3文字から11月末日で完全引退した。もつとも6年間は第二の職場ではなくお手伝い、自分では“お礼奉公”の感覚で勤めて来たが関係者の皆さんには感謝あるのみである。
仕事には人並ならぬ未練もあったし、また40年間の蓄積した技をこのまま閉鎖するのは余りにも勿体無いと思って来た。そんな訳で偶には現役時代とあまり変らない仕事もあって、何と云っても一番の思い出は2001年、正に21世紀の幕開け元日の朝に九十九里浜海岸に設置した特設ステージで、日の出の太陽を背景に中村勘三郎・勘九郎・七之助親子三人で舞う「連獅子」のTV生中継放送だった。
この放送はGTV・BSと同時に、また世界に向けて配信された。前夜から降り続いていた雨も放送30分前に止み、心配された太陽も放送時には雲の隙間から実に効果的に踊りのクライマックスには背景に全開となり、演者・スタッフ共に至福の劇的な瞬間を迎えた。雨でリハーサル無しのブッツケ本番のアドリブだったが、自分は現役時代に先代勘三郎と勘九郎(現勘三郎)の「連獅子」を歌舞伎座で経験していたので何の問題も無く、お目出度い時に舞うと伝えられるこの「連獅子」の舞いを親子二代に渉り、しかも定年後に関れた事に感謝と同時に誇りにさえ思えた。
こんな仕事の合い間ではあったが、N**文化センター福島教室からのお誘いもあって関係者の皆さんには大変なお荷物だったと思うが、全く未知の分野のド素人が二年少々貴重な体験をさせて頂き実に充実した日々を送る事が出来た。これも感謝あるのみである。そして12月29日には忘年会、実質自分の送別会にお招きして頂き、更にもう生涯手にする事も無いと思っていたこの“花束”素晴らしいプレゼントに改めて感謝、お礼の言葉も見つからないほどだ。
11月には福島の同僚、自分と前後してリタイアーした6人の中でY君が2人目として逝ってしまった。彼とは高校の同級生、彼は入局後ラジオに配属されて地味ではあったがそれを基礎に送信技術のスペシャリストになった。自分のTV番組制作のヤクザ稼業とは異なる本道を歩んで来ただけに、本当に貴重な人材を失い、自分の完全リタイアーと合せても何とも淋しい限りだ。
散歩だけが唯一の日課と云う同僚も居る中で自分は道楽三昧の日々、今後は孫専従で如何ほど楽しめるか予測もし難いが、早く逝ってしまった同僚の分まで“残り少ない日々を思い残す事無く充実して過ごしたい”と新たな歳への願望でもある。
この一年は近年にない激動の年だった。
1月9日3人目の孫誕生、そして我が身内では前代未聞の20日程の早産ではあったが12月25日に4人目男子が1年しかも年を跨がず誕生してしまった。
「誰にも迷惑を掛けない」との事だっが、結局孫専科から不本意な孫専従に進展、止む無く46年間世話になったN**の3文字から11月末日で完全引退した。もつとも6年間は第二の職場ではなくお手伝い、自分では“お礼奉公”の感覚で勤めて来たが関係者の皆さんには感謝あるのみである。
仕事には人並ならぬ未練もあったし、また40年間の蓄積した技をこのまま閉鎖するのは余りにも勿体無いと思って来た。そんな訳で偶には現役時代とあまり変らない仕事もあって、何と云っても一番の思い出は2001年、正に21世紀の幕開け元日の朝に九十九里浜海岸に設置した特設ステージで、日の出の太陽を背景に中村勘三郎・勘九郎・七之助親子三人で舞う「連獅子」のTV生中継放送だった。
この放送はGTV・BSと同時に、また世界に向けて配信された。前夜から降り続いていた雨も放送30分前に止み、心配された太陽も放送時には雲の隙間から実に効果的に踊りのクライマックスには背景に全開となり、演者・スタッフ共に至福の劇的な瞬間を迎えた。雨でリハーサル無しのブッツケ本番のアドリブだったが、自分は現役時代に先代勘三郎と勘九郎(現勘三郎)の「連獅子」を歌舞伎座で経験していたので何の問題も無く、お目出度い時に舞うと伝えられるこの「連獅子」の舞いを親子二代に渉り、しかも定年後に関れた事に感謝と同時に誇りにさえ思えた。
こんな仕事の合い間ではあったが、N**文化センター福島教室からのお誘いもあって関係者の皆さんには大変なお荷物だったと思うが、全く未知の分野のド素人が二年少々貴重な体験をさせて頂き実に充実した日々を送る事が出来た。これも感謝あるのみである。そして12月29日には忘年会、実質自分の送別会にお招きして頂き、更にもう生涯手にする事も無いと思っていたこの“花束”素晴らしいプレゼントに改めて感謝、お礼の言葉も見つからないほどだ。
11月には福島の同僚、自分と前後してリタイアーした6人の中でY君が2人目として逝ってしまった。彼とは高校の同級生、彼は入局後ラジオに配属されて地味ではあったがそれを基礎に送信技術のスペシャリストになった。自分のTV番組制作のヤクザ稼業とは異なる本道を歩んで来ただけに、本当に貴重な人材を失い、自分の完全リタイアーと合せても何とも淋しい限りだ。
散歩だけが唯一の日課と云う同僚も居る中で自分は道楽三昧の日々、今後は孫専従で如何ほど楽しめるか予測もし難いが、早く逝ってしまった同僚の分まで“残り少ない日々を思い残す事無く充実して過ごしたい”と新たな歳への願望でもある。
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