第三の道(非“民主”・反独裁の組織論)
この本は、企業現場に密着した労務管理の観点からの「人を動かす」本ではなかろうかと思う。初版は昭和51年(1976年)9月にマネジメントセンター出版部から出ている。我が国の家電業界が旭日昇天の勢いであった時代。ソニーの厚木工場長、そして常務取締役を歴任され、「ソニーは人を生かす」*2)などの著者で知られた小林茂氏の本である。
私は、この本を昭和55年の正月に帰省した折、長兄から貰って読むことを勧められた。長兄は当時旭化成延岡工場の係長で、社内教育用の教材として購入したものだったと聞いた記憶がある。当時の我が国の一流企業は従業員教育に熱心だった。従業員一人一人の能力を育むことが、自社の組織力の向上と成長につながることを、当時の経営者は腹の底から心得ていたように思う。
今また読み返してみて、自分がその10数年後の40歳後半のある時期、管理職として50名を超える主婦のパートさん達と仕事をした時の処し方や、今、診断士となって品質管理のセミナーで、TQMの理念である人間性尊重の大切さを声を大にして語るのは、明らかにこの本(第三の道)から影響を受けたものだったことを知る。貴重な示唆を受けていたのである。
著者の小林茂氏は、印刷技術者であり、印刷・出版関係の仕事をしていたが、当時労務問題で悩んでいたソニーが、人づてに小林氏を知り、日本最初のトランジスタ量産工場として新設された厚木工場の工場長として招き入れたという。1961年8月、小林氏47歳であった。
小林氏は入社前からソニートップのマネジメント・フィロソフィー(経営哲学)になみなみならぬものを感じていたからこそ招きに応じたものの、トランジスタのトの字も知らず、知り合いも全くいないことに、赴任直前にはさすがに心配になり、当時の社長であった井深大氏をたずねた。「トランジスタのことを少し勉強したいのですが、適当な本はないでしょうか」との小林氏の問いに、井深氏は、「そんな勉強は必要ない。読んでもどうせわからんよ」に続けて「小林君、工場をつぶしてもかまわない。思いのままにやってくれ」と激励したという。
当時のソニー厚木工場は5~600名の従業員数でその約75%は女子で、中学校を卒業して地方から集団就職してきた人達であり、そのほとんどが会社の寮に住み、二交代勤務についていた。そんな従業員を前に、小林氏はその就任挨拶で、「私はトランジスタのトの字も知りません。しかし人間が大好きです。私たちは、この工場を世界一の工場にできると思います。いっしょにがんばりましょう」というようなことをしゃべった。従業員は皆なんとも若々しく、どの顔も明るくニコニコとして可愛らしく見えたことから、思わず出た言葉だったという。
私は、この本と出合うだいぶん前から、ソニーの創業者として有名な井深大氏は知っていたが、ある時、文藝春秋に寄稿されていた井深大氏のその苗字と名前のバランスの良さに感動した。当時結婚もしていなかったのに、長男には「大」という名前をいただこうと考えていた。結婚して男の子を授かり、早速そのように命名した。彼は幼時から私より二桁くらい頭がいいように思えたものだが、当たり前のように東京大学に進んだ。その後、江戸東京博物館で開催された井深大・本田宗一郎展(2002年)には大学院生の息子と二人出かけたものだった。1990年代の後半には、電子部品を供給する形で一時期仕事の上でもソニーさんとは関係があった。
ソニーは一時期ものづくり開発から距離を置き、多くのファンを悲しませながら収益を落とした。トランジスタラジオに始まり、テープレコーダー、ウォークマンなど数々のヒットを飛ばした盛田氏など創業者健在の頃の同社は、小林氏が実践された人間を信じ尊重し、衆知を集めて取り組んだものづくりと不断の研究開発の成果を享受した。それはこの国のものづくり文化そのものの盛衰さえ表しているように思う。人を大切にする企業でないと成功は望めないのである。
*2)1966年10月、日本経営出版会。著者である小林茂氏が、1961年ソニーの厚木工場長に就任した当時の工場経営改革を記録したもの。当時、ソニーはすでに世界に名の知れた一流企業であったが、労使関係は良好でなく、労働争議も発生していた。
本稿は、小林茂著「第三の道」(非“民主”・反独裁の組織論)マネジメントセンター出版部1976年刊を参考に構成しています。
この本は、企業現場に密着した労務管理の観点からの「人を動かす」本ではなかろうかと思う。初版は昭和51年(1976年)9月にマネジメントセンター出版部から出ている。我が国の家電業界が旭日昇天の勢いであった時代。ソニーの厚木工場長、そして常務取締役を歴任され、「ソニーは人を生かす」*2)などの著者で知られた小林茂氏の本である。
私は、この本を昭和55年の正月に帰省した折、長兄から貰って読むことを勧められた。長兄は当時旭化成延岡工場の係長で、社内教育用の教材として購入したものだったと聞いた記憶がある。当時の我が国の一流企業は従業員教育に熱心だった。従業員一人一人の能力を育むことが、自社の組織力の向上と成長につながることを、当時の経営者は腹の底から心得ていたように思う。
今また読み返してみて、自分がその10数年後の40歳後半のある時期、管理職として50名を超える主婦のパートさん達と仕事をした時の処し方や、今、診断士となって品質管理のセミナーで、TQMの理念である人間性尊重の大切さを声を大にして語るのは、明らかにこの本(第三の道)から影響を受けたものだったことを知る。貴重な示唆を受けていたのである。
著者の小林茂氏は、印刷技術者であり、印刷・出版関係の仕事をしていたが、当時労務問題で悩んでいたソニーが、人づてに小林氏を知り、日本最初のトランジスタ量産工場として新設された厚木工場の工場長として招き入れたという。1961年8月、小林氏47歳であった。
小林氏は入社前からソニートップのマネジメント・フィロソフィー(経営哲学)になみなみならぬものを感じていたからこそ招きに応じたものの、トランジスタのトの字も知らず、知り合いも全くいないことに、赴任直前にはさすがに心配になり、当時の社長であった井深大氏をたずねた。「トランジスタのことを少し勉強したいのですが、適当な本はないでしょうか」との小林氏の問いに、井深氏は、「そんな勉強は必要ない。読んでもどうせわからんよ」に続けて「小林君、工場をつぶしてもかまわない。思いのままにやってくれ」と激励したという。
当時のソニー厚木工場は5~600名の従業員数でその約75%は女子で、中学校を卒業して地方から集団就職してきた人達であり、そのほとんどが会社の寮に住み、二交代勤務についていた。そんな従業員を前に、小林氏はその就任挨拶で、「私はトランジスタのトの字も知りません。しかし人間が大好きです。私たちは、この工場を世界一の工場にできると思います。いっしょにがんばりましょう」というようなことをしゃべった。従業員は皆なんとも若々しく、どの顔も明るくニコニコとして可愛らしく見えたことから、思わず出た言葉だったという。
私は、この本と出合うだいぶん前から、ソニーの創業者として有名な井深大氏は知っていたが、ある時、文藝春秋に寄稿されていた井深大氏のその苗字と名前のバランスの良さに感動した。当時結婚もしていなかったのに、長男には「大」という名前をいただこうと考えていた。結婚して男の子を授かり、早速そのように命名した。彼は幼時から私より二桁くらい頭がいいように思えたものだが、当たり前のように東京大学に進んだ。その後、江戸東京博物館で開催された井深大・本田宗一郎展(2002年)には大学院生の息子と二人出かけたものだった。1990年代の後半には、電子部品を供給する形で一時期仕事の上でもソニーさんとは関係があった。
ソニーは一時期ものづくり開発から距離を置き、多くのファンを悲しませながら収益を落とした。トランジスタラジオに始まり、テープレコーダー、ウォークマンなど数々のヒットを飛ばした盛田氏など創業者健在の頃の同社は、小林氏が実践された人間を信じ尊重し、衆知を集めて取り組んだものづくりと不断の研究開発の成果を享受した。それはこの国のものづくり文化そのものの盛衰さえ表しているように思う。人を大切にする企業でないと成功は望めないのである。
*2)1966年10月、日本経営出版会。著者である小林茂氏が、1961年ソニーの厚木工場長に就任した当時の工場経営改革を記録したもの。当時、ソニーはすでに世界に名の知れた一流企業であったが、労使関係は良好でなく、労働争議も発生していた。
本稿は、小林茂著「第三の道」(非“民主”・反独裁の組織論)マネジメントセンター出版部1976年刊を参考に構成しています。