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池田勇人その生と死 37

2025年01月19日 | ブログ
ケネディの死

 『池田は、こんどの外遊をしめくくる同行記者団との会見で、いままでの経過を話し、「こんどの東南アジア訪問で、ヨーロッパ外遊が非常に大きな力となっていることに気がついた。自分はこれからはもう、日本が大国だとか一流国だととは言わない。それは世界の人びとが認めてくれている」と話した。

 マレーシア問題はその後平和的解決にはむかわず、スカルノはますます中共寄りになっていった。池田の外遊の成果は、現実には実をむすばなかったと言えるかもしれない。しかし、太平洋の西岸地帯に生き生きと活動する経済共同体をつくろうという池田の夢は、いまでもそれらの国の心ある人びとの胸のなかにのこっているはずだ、と私は思う。

 十月六日に帰国した。二日たった八日の朝八時、藤山総務会長が池田をたずねてきた。私があとで、池田にどういうことかと、と聞くと「冒頭解散をすすめてきたよ」と言う。

 結局、十五日に臨時国会が開かれ、二十三日、各党質問が終わり、池田の答弁が終わったところで解散となった。

 十一月の四日からまた遊説がはじまる。・・翌五日、会津若松から郡山の小学校へむかう。・・途中、車のなかのラジオで、郡山の小学校で池田総理が右翼におそわれたというニュースが入った。はじめからこの男がおかしいと地元の警察でにらんでいたので、事前に防ぐことができたのである。

 政権担当三年目になると、いろんなところでいろいろな不満がおきる。

 この選挙の期間は、いやな事件がつぎつぎとつづいた。十一月九日には、三井三池の爆発事故と鶴見事故がおこる。・・十三日、演説中の野坂参三を短刀でねらった男がとらわれる。・・

 私も疲れていたが、あるいは池田はもっと疲れていたかも知れない。

 選挙は終わり、ほとんど選挙前とかわらぬ議席におちついた。・・十一月二十二日の夜、池田は箱根に行ったが、私は、翌日一日、池田のお相手をするにはあまりにも疲れ切っていた。外務省の黒田秘書官についていってもらい、こんこんと寝入った。

 ところが、その翌日あけがた四時すぎ、友人の新聞記者から電話がはいった。ケネディが暴漢に襲われたというのである。三○分ほどして、また、三発の弾丸をうちこまれて死んだという知らせをくれた。

 池田が山を降りると言う。夜十一時ごろ私邸に行く。「皇太子に訪米していただこうと思ったら宮内庁がことわり、吉田さんに行ってもらおうと思ったら、ライシャワーがことわった」と池田が言った。テレビがケネディの番組をやっていた。・・・

 夜中の一時ごろ、NHKの記者から電話があった。「ヒューム外相、エジンバラ候、ドゴール大統領が行くそうだが、総理は行かないのか」と言う。多分行かないだろう、と私は答えた。長い秘書官時代で、私は、はじめて誤った。

 翌日の日曜、朝五時ごろ、池田から電話があって、「行くことにした」という。はじめは「カソリックのならわしとして、ケネディの近親者だけの葬儀をする、きてくれるな」という連絡だったので、外務省がいかなくてもよいと判断したらしい。・・前尾幹事長、黒金官房長官、大平外相の三者が私邸に集まり、渡米を決定した。八時に臨時閣議をひらき、河野を臨時首相代理とし、池田は十時の飛行機に乗った。

 ケネディの死が、日本国民のあいだにも異常な関心をまきおこしている・・・ちょっとしたことが重なりあって、ケネディは偉かったが、池田はつまらない人物だという雰囲気がではじめる。・・・

 議長問題がまたもめる。・・結局、総理と党四役の会談で船田と決まった。

 十二月九日、首班指名のあと、全閣僚留任で第三次池田内閣が発足した。

 ケネディの死後しばらくのあいだ、池田政権は、エンジンの調子が変だった。しばしばノッキングする。短い期間であったが、政局のなかで、エアポケットにぶつかった感じだった。

 「ヨーロッパと日本」という言葉を使い始めたのはケネディである。彼は、ヨーロッパと同じように、アジアに顔をむけた最初のアメリカ大統領かもしれない。それだけに、耳をすませて池田の言葉を聞いた。二人のあいだには、なにかあいひくものがあった。・・・』

本稿は、伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(株)至誠堂昭和41年12月刊からの引用です。




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