ビジネスインサイダー Apr. 05, 2021, 06:30 AM三宅玲子 [ノンフィクションライター]
東京・駒場の東京大学駒場キャンパス近くの静かな住宅街に、存在感のある和風の建物がある。ある週末、この建物をぐるりと取り囲む人の列ができた。2020年11月のことだ。辛抱強く並んでいるのは若者ばかりだ。彼らが待つのは、現代アートでもなければ、ファッションでもライブでもない。
ここは日本民藝館だ。民藝運動を率いた思想家・柳宗悦(1889〜1961)が1936年に設立した。民衆的工藝を略して民藝。日本をはじめ朝鮮半島や中国、欧米などに伝わる美しい工芸品を収集・保管するこの場所で開かれていた展覧会は、「アイヌの美しき手仕事」。
2020年9月15日に開幕すると、じわじわと人気を呼び、約2カ月の会期で1万9000人が来場した。そのうち半分ぐらいが若者だった。過去の展覧会にはあまり見られないことだ。
展示品は、どれもアイヌの人々の暮らしの中で生み出され、愛用されてきた実用の品々だ。男たちが自分で使うために木を掘り、美しい文様を施した煙草入れ。木の繊維で織られた布地にひとさしひとさし刺繍した美しい衣服。刀で削り出し優美な曲線を描く木の器。
展示品の一つ、イラクサ地切伏刺繍衣裳(テタラペ)。樺太アイヌ。日本民藝館蔵
提供:日本民藝館
「一般的に展覧会は開幕してすぐに来場者数が伸び、中だるみの後、閉幕直前に駆け込みの来場者が増えることが多いです。ところが、今回の展覧会は最後までずっとクレッシェンドで増え続けました」
「一般的に展覧会は開幕してすぐに来場者数が伸び、中だるみの後、閉幕直前に駆け込みの来場者が増えることが多いです。ところが、今回の展覧会は最後までずっとクレッシェンドで増え続けました」
学芸員の古屋真弓(46)はこう振り返った。
無作為に来館者に声をかけて、来館のきっかけや民藝への関心がどのくらいあったかを尋ねたところ、初めて来たと話す人が多かったという。その中でも「アイヌの展覧会がきっかけで来た」という声が多く聞かれた。
多くの10代にとって、「民藝」は身近に感じられるものではないだろう。ところが、この展覧会では確実に若い世代に届いた手応えがあったと古屋は言う。
柳宗悦が注目、アイヌの手仕事の美しさ
今からちょうど80年前の1941年、柳宗悦はアイヌの手仕事を紹介する日本で初めての展覧会「アイヌ工藝文化展」を企画した。太平洋戦争が始まる年だ。
現在の北海道が「北海道」という地名になったのは、明治初期。それまでは蝦夷地と呼ばれたこの地には、本州が飛鳥・奈良・平安時代だった時期に「擦文(さつもん)文化」と呼ばれる独自の文化があった。アイヌ文化は日本でいう鎌倉時代に成立したとされ、擦文文化の伝統的な暮らしを受け継いでいるという。狩猟や漁猟を主とするアイヌ民族は近世(江戸時代)には江戸幕府直轄の松前藩などとの交易を行っていた。明治期、明治政府の推し進めた同化政策により、アイヌ民族は自分たちの生活習慣や言葉、文化を奪われる。
そのアイヌの手仕事の美しさや、自然と調和した暮らし方、自然と信仰との関係に民藝の視座から着眼したのが柳宗悦だった。
柳宗悦は次のように記した。
<アイヌの工藝は手先だけの業ではない。頭だけの巧策絵はない。彼らの信仰に色付けられた仕事である。信仰の意味を有(も)たなくして仕事はしない。之(これ)がどんなに美に影響するであろう。いわば信が産む美だと云っていい。之が美しさを純粋なものにさせる。>(『工藝』106号 ・1941年)※読み仮名は編注
今回の企画展では、1941年当時の展覧会で展示を担当した芹沢銈介のスタイルを一部再現。ガラス越しではなく、何にも覆われずに展示された作品を見ることができるようにした。
さらに古屋はそのエリア限定で撮影可にしてはどうかと考えた。
同館の館長を務めるプロダクトデザイナーの深澤直人(65)に相談したところ、同意を得た。展覧会場の一部を撮影可にしたのは、日本民藝館では今回が初めてだ。
会期前にインスタグラムの日本民藝館公式アカウントで告知すると、反響が大きく、人気が出ることを予感した。
開幕後は来場者の撮った写真がSNSで次々にアップされ、シェアやリツイートが繰り返された。来場者数は日を追うごとに増えた。展覧会の終盤には週末ともなると入館を待つ人たちで列ができた。
歴史や政治超える民藝の力
柳宗悦は著書『民藝とは何か』(1941年刊)で民藝についてこう述べている。
<民藝品は民間から生まれ、主に民間で使われるもの。したがって作者は無名の職人であり(中略)、用いられる場所も多くは家族の住む居間やまた台所。>
<姿も質素であり頑丈であり、形も模型もしたがって単純になります。作る折の心の状態も極めて無心なのです。>
<材料は天然物であり、それも多くはその土地の物質なのです。目的も皆実用品で直接日々の生活に必要なものばかりなのです。>
作家が個性を研ぎ澄ませる作品に対し、民藝はその土地で長年受け継がれてきた生活のための道具だ。無名の職人たちが受け継ぎ伝えてきた道具は、その土地でとれた材料で、ときには使い勝手を求めて改良を重ね、これが必然だという形にたどり着いている。木や土、紙など、自然の素材からはぬくもりが伝わってくる。
風土に根ざした生活の美に柳宗悦が開眼したのは、朝鮮陶磁器との出合いがきっかけだった。1910年の日本政府による韓国併合の数年後、知人からお土産にともたらされた朝鮮の面取壺に魅了された。以後、足しげく朝鮮半島へ通い、現地で反日独立運動(1919年 3・1運動)が勃発した際には支配される側に立ち、自国の植民地政策を批判したことが知られている。
「明治維新以降、西洋の価値観を積極的に取り入れ、アジアの周辺国の植民地化を進めていた当時、柳宗悦は勇敢だったと思います」
柳について古屋はこう指摘した。
沖縄やアイヌ、統治下にあった台湾をはじめ、その土地の風土を生かし伝統に根ざした工芸の美の収集に力を入れ、民藝の思想を深めた。共鳴する仲間を得てつくったのが日本民藝館だ。
民藝運動の先駆者が見出したアイヌの手仕事の美に、80年後の若者たちが目を見張り、心を動かされた。
「美しいということは強いなと思います。アイヌの歴史や政治の問題からのアプローチでは頭に入りにくくても、美しい手仕事は見る人の心を深く動かし、忘れられない記憶として残るのではないでしょうか」
民藝の根本は「世界平和」
古屋真弓 経歴
民藝の意味は、ものそのものの美しさにとどまらず、それを生み出し、それを使って暮らす人たちを認めるということにつながっていく。それが民藝の本髄ではないかと古屋は言う。
「民族それぞれに素晴らしいものを持っていて、それぞれの民族が素晴らしい。そして自分たちも誇りを持つということ。他者を認めるということが民藝の根本にはあると思います」
これは大きく言えば世界平和なんです、と古屋は続けた。
「アイヌ工芸のすごくいい展覧会を見たなという記憶や、美しい衣装への感動が心に残っていれば、アイヌ関連のニュースを見たときに、アイヌが直面する問題は他人事ではなくなるでしょう。展覧会で心を動かされたという体験がいつかそんなふうにつながっていけばいいなと思います」
展覧会の準備期間には、作品調査のために北海道から研究員のグループが訪れた。古屋が収蔵室から日本民藝館のコレクションをひとつひとつ取り出して見せると、そのたびに研究員たちから歓声が上がった。アイヌの手仕事を敬愛する研究員たちの姿に胸があたたかくなる思いがしたという。
古屋が日本民藝館を初めて訪れたのは18歳、高校3年生のときだ。「わたし、ここが好き!」と直感した。それ以来、古屋にとっていつも民藝は生活における大切な価値観になった。それから日本民藝館の学芸員になるまでには、暮らしの中の民藝を実体験する海外での生活があった。
(敬称略、明日に続く)
(文・三宅玲子、写真・伊藤圭、デザイン・星野美緒)
https://www.businessinsider.jp/post-232141
東京・駒場の東京大学駒場キャンパス近くの静かな住宅街に、存在感のある和風の建物がある。ある週末、この建物をぐるりと取り囲む人の列ができた。2020年11月のことだ。辛抱強く並んでいるのは若者ばかりだ。彼らが待つのは、現代アートでもなければ、ファッションでもライブでもない。
ここは日本民藝館だ。民藝運動を率いた思想家・柳宗悦(1889〜1961)が1936年に設立した。民衆的工藝を略して民藝。日本をはじめ朝鮮半島や中国、欧米などに伝わる美しい工芸品を収集・保管するこの場所で開かれていた展覧会は、「アイヌの美しき手仕事」。
2020年9月15日に開幕すると、じわじわと人気を呼び、約2カ月の会期で1万9000人が来場した。そのうち半分ぐらいが若者だった。過去の展覧会にはあまり見られないことだ。
展示品は、どれもアイヌの人々の暮らしの中で生み出され、愛用されてきた実用の品々だ。男たちが自分で使うために木を掘り、美しい文様を施した煙草入れ。木の繊維で織られた布地にひとさしひとさし刺繍した美しい衣服。刀で削り出し優美な曲線を描く木の器。
展示品の一つ、イラクサ地切伏刺繍衣裳(テタラペ)。樺太アイヌ。日本民藝館蔵
提供:日本民藝館
「一般的に展覧会は開幕してすぐに来場者数が伸び、中だるみの後、閉幕直前に駆け込みの来場者が増えることが多いです。ところが、今回の展覧会は最後までずっとクレッシェンドで増え続けました」
「一般的に展覧会は開幕してすぐに来場者数が伸び、中だるみの後、閉幕直前に駆け込みの来場者が増えることが多いです。ところが、今回の展覧会は最後までずっとクレッシェンドで増え続けました」
学芸員の古屋真弓(46)はこう振り返った。
無作為に来館者に声をかけて、来館のきっかけや民藝への関心がどのくらいあったかを尋ねたところ、初めて来たと話す人が多かったという。その中でも「アイヌの展覧会がきっかけで来た」という声が多く聞かれた。
多くの10代にとって、「民藝」は身近に感じられるものではないだろう。ところが、この展覧会では確実に若い世代に届いた手応えがあったと古屋は言う。
柳宗悦が注目、アイヌの手仕事の美しさ
今からちょうど80年前の1941年、柳宗悦はアイヌの手仕事を紹介する日本で初めての展覧会「アイヌ工藝文化展」を企画した。太平洋戦争が始まる年だ。
現在の北海道が「北海道」という地名になったのは、明治初期。それまでは蝦夷地と呼ばれたこの地には、本州が飛鳥・奈良・平安時代だった時期に「擦文(さつもん)文化」と呼ばれる独自の文化があった。アイヌ文化は日本でいう鎌倉時代に成立したとされ、擦文文化の伝統的な暮らしを受け継いでいるという。狩猟や漁猟を主とするアイヌ民族は近世(江戸時代)には江戸幕府直轄の松前藩などとの交易を行っていた。明治期、明治政府の推し進めた同化政策により、アイヌ民族は自分たちの生活習慣や言葉、文化を奪われる。
そのアイヌの手仕事の美しさや、自然と調和した暮らし方、自然と信仰との関係に民藝の視座から着眼したのが柳宗悦だった。
柳宗悦は次のように記した。
<アイヌの工藝は手先だけの業ではない。頭だけの巧策絵はない。彼らの信仰に色付けられた仕事である。信仰の意味を有(も)たなくして仕事はしない。之(これ)がどんなに美に影響するであろう。いわば信が産む美だと云っていい。之が美しさを純粋なものにさせる。>(『工藝』106号 ・1941年)※読み仮名は編注
今回の企画展では、1941年当時の展覧会で展示を担当した芹沢銈介のスタイルを一部再現。ガラス越しではなく、何にも覆われずに展示された作品を見ることができるようにした。
さらに古屋はそのエリア限定で撮影可にしてはどうかと考えた。
同館の館長を務めるプロダクトデザイナーの深澤直人(65)に相談したところ、同意を得た。展覧会場の一部を撮影可にしたのは、日本民藝館では今回が初めてだ。
会期前にインスタグラムの日本民藝館公式アカウントで告知すると、反響が大きく、人気が出ることを予感した。
開幕後は来場者の撮った写真がSNSで次々にアップされ、シェアやリツイートが繰り返された。来場者数は日を追うごとに増えた。展覧会の終盤には週末ともなると入館を待つ人たちで列ができた。
歴史や政治超える民藝の力
柳宗悦は著書『民藝とは何か』(1941年刊)で民藝についてこう述べている。
<民藝品は民間から生まれ、主に民間で使われるもの。したがって作者は無名の職人であり(中略)、用いられる場所も多くは家族の住む居間やまた台所。>
<姿も質素であり頑丈であり、形も模型もしたがって単純になります。作る折の心の状態も極めて無心なのです。>
<材料は天然物であり、それも多くはその土地の物質なのです。目的も皆実用品で直接日々の生活に必要なものばかりなのです。>
作家が個性を研ぎ澄ませる作品に対し、民藝はその土地で長年受け継がれてきた生活のための道具だ。無名の職人たちが受け継ぎ伝えてきた道具は、その土地でとれた材料で、ときには使い勝手を求めて改良を重ね、これが必然だという形にたどり着いている。木や土、紙など、自然の素材からはぬくもりが伝わってくる。
風土に根ざした生活の美に柳宗悦が開眼したのは、朝鮮陶磁器との出合いがきっかけだった。1910年の日本政府による韓国併合の数年後、知人からお土産にともたらされた朝鮮の面取壺に魅了された。以後、足しげく朝鮮半島へ通い、現地で反日独立運動(1919年 3・1運動)が勃発した際には支配される側に立ち、自国の植民地政策を批判したことが知られている。
「明治維新以降、西洋の価値観を積極的に取り入れ、アジアの周辺国の植民地化を進めていた当時、柳宗悦は勇敢だったと思います」
柳について古屋はこう指摘した。
沖縄やアイヌ、統治下にあった台湾をはじめ、その土地の風土を生かし伝統に根ざした工芸の美の収集に力を入れ、民藝の思想を深めた。共鳴する仲間を得てつくったのが日本民藝館だ。
民藝運動の先駆者が見出したアイヌの手仕事の美に、80年後の若者たちが目を見張り、心を動かされた。
「美しいということは強いなと思います。アイヌの歴史や政治の問題からのアプローチでは頭に入りにくくても、美しい手仕事は見る人の心を深く動かし、忘れられない記憶として残るのではないでしょうか」
民藝の根本は「世界平和」
古屋真弓 経歴
民藝の意味は、ものそのものの美しさにとどまらず、それを生み出し、それを使って暮らす人たちを認めるということにつながっていく。それが民藝の本髄ではないかと古屋は言う。
「民族それぞれに素晴らしいものを持っていて、それぞれの民族が素晴らしい。そして自分たちも誇りを持つということ。他者を認めるということが民藝の根本にはあると思います」
これは大きく言えば世界平和なんです、と古屋は続けた。
「アイヌ工芸のすごくいい展覧会を見たなという記憶や、美しい衣装への感動が心に残っていれば、アイヌ関連のニュースを見たときに、アイヌが直面する問題は他人事ではなくなるでしょう。展覧会で心を動かされたという体験がいつかそんなふうにつながっていけばいいなと思います」
展覧会の準備期間には、作品調査のために北海道から研究員のグループが訪れた。古屋が収蔵室から日本民藝館のコレクションをひとつひとつ取り出して見せると、そのたびに研究員たちから歓声が上がった。アイヌの手仕事を敬愛する研究員たちの姿に胸があたたかくなる思いがしたという。
古屋が日本民藝館を初めて訪れたのは18歳、高校3年生のときだ。「わたし、ここが好き!」と直感した。それ以来、古屋にとっていつも民藝は生活における大切な価値観になった。それから日本民藝館の学芸員になるまでには、暮らしの中の民藝を実体験する海外での生活があった。
(敬称略、明日に続く)
(文・三宅玲子、写真・伊藤圭、デザイン・星野美緒)
https://www.businessinsider.jp/post-232141