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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

アイヌ文様をコーラボトルに 亡き父の「北海道」ロゴ生かす 平取の工芸家関根さん

2021-04-03 | アイヌ民族関連
北海道新聞 04/03 05:00

北海道コカ・コーラボトリング(札幌)が3月下旬から、アイヌ文様をあしらった北海道限定ボトルの販売を開始した。デザインを手がけたのは日高管内平取町のアイヌ工芸家関根真紀さん(53)。41歳の若さで亡くなった父親が1960年代に描いた北海道のロゴとアイヌ文様を組み合わせた図柄で、関根さんは「父が残したロゴを生かした作品が採用されてうれしい」と話している。
 2017年から販売されている北海道限定ボトルにアイヌ文様が描かれるのは初めて。同社が東京五輪に合わせて、北海道らしい文化をPRしようと、関根さんにデザインを依頼した。
 図柄の中央には「北海道」の漢字3文字を使って北海道の形を描いたロゴを配置。とげがある曲線のアイヌ文様「アイウシ」などで囲んだ。関根さんは「デザインを考え始めてすぐ、父が生前に描いた北海道のロゴが思い浮かんだ」と話す。
 父、貝沢守幸さんは1935年に平取町二風谷で生まれ、旭川市での大工の修業を経て、62年に二風谷で民芸品店を開業した。ボトルに描かれた北海道のロゴは、店の制服用にデザインされたものだ。貝沢さんはテーブルや家の柱にアイヌ文様を彫り込むなど独自の作品づくりにも熱心だったが77年8月、関根さんが10歳の時に心筋梗塞で急死した。国立民族学博物館(大阪)には作品約190点が収蔵されている。
 関根さんは幼少期からデッサンや木彫りに親しみ、現在は平取町を拠点に創作活動に取り組む。作品づくりに悩んだ時は今も父が残したスケッチブックを見て、考える。「父は今も心の中にいる師匠。親子で作ったボトルを多くの人に手に取ってもらいたい」(田鍋里奈)
※「アイウシ」の「シ」は小さい字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/529173

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豊浦町にアイヌ伝統儀式の施設新設へ 来年4月の開館予定

2021-04-03 | アイヌ民族関連
NHK 04月02日 20時22分

豊浦町は、地元のアイヌの人たちが伝統の儀式を行う施設をことし新たに建設し、アイヌ文化の発信に力を入れることになりました。
豊浦町には明治時代初期までアイヌの人たちの集落「コタン」が存在し、現在も地元のアイヌの人たちが神々に感謝を述べる伝統の儀式「カムイノミ」などを毎年行っています。
町は、アイヌ文化の発信を強化するため、礼文華地区にある海浜公園に伝統の儀式を行う施設を新たに建設することになりました。
施設は木造平屋建てで、町では、訪れた人たちにアイヌ伝統の料理や工芸を体験してもらったり、アイヌ文化を学べる展示をしたりすることも検討しています。
建設費はおよそ1億1600万円で、主に国からの交付金が活用されるということです。
ことし7月ごろから建設が始まり、年内に完成したあと、来年4月の開館が予定されています。
豊浦町は「町内外から多くの人が訪れ、アイヌ民族の文化を知ることができる魅力ある施設にしていきたい」としています。
https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20210402/7000032500.html

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アイヌ民族と情報交換の窓口設置要請 日テレ差別表現問題で北大教員

2021-04-03 | アイヌ民族関連
北海道新聞 04/02 21:30
 日本テレビ系列の情報番組「スッキリ」でアイヌ民族への差別表現があった問題で、北大の教員有志が同局に番組制作の経緯の説明や、日常的にアイヌ民族と情報交換する窓口設置などを求める要請書を出した。
 要請書は教員12人の連名で、3月下旬にファクスで送った。アイヌ民族と交流する窓口を新設し、社員が歴史や文化を理解した上で番組制作にあたるよう要請。検証番組の放送に加え、アイヌ民族を取り巻く問題の理解促進のため、継続的な報道を求めた。
 要請書をまとめた北大経済学研究院の安部由起子教授は、北大にはアイヌ民族の教職員や学生がいることを踏まえ、「決して看過できない問題。今後も同局の動きを注視する」と話している。(田鍋里奈)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/529140

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室蘭舞台映画「モルエラニの霧の中」市内で公開 見慣れた街並み 芸術的 監督、地元の協力に感謝

2021-04-03 | アイヌ民族関連
北海道新聞 04/02 20:29 更新
 東京に続き、室蘭市内のディノスシネマズ室蘭(東町)でも2日に劇場公開が始まったオール室蘭ロケの映画「モルエラニの霧の中」。地元の観客は、見慣れた街並みが芸術的な作品の一場面となったことに驚きの声をあげた。坪川拓史監督(49)は舞台あいさつで、延べ千人にのぼる市民らの協力に対し、感謝の言葉を繰り返した。
 映画の終幕に流れたエンドロールは約7分半。出演者やプロのスタッフだけでなく映画に協力した市民の名がずらりと並んだ。坪川監督はあいさつに立ち、「多くの人に協力してもらい映画ができた。エンドロールの長さは、その意味がこもっています」と語った。
 撮影は2014年にスタート。撮影に約5年かけたが、新型コロナウイルスの拡大などもあり、上映までに7年かかった。
 この間、資金集めや撮影現場の手配などさまざまな場面で室蘭の市民が協力した。舞台あいさつには、市民キャストの橋本さくらさん(18)と桃枝俊子さん(69)、村田博さん(64)も登場した。
 「地元室蘭が一芸術作品なるとは」。作品を見終えた室蘭市母恋北町の伊原克利さん(70)は驚いた様子。「知人や近所の景色が出ていて、まさに市民参加の映画だ」と話した。室蘭市の女性(52)は「きれいで優しい映画。室蘭に住んでいても、行ったことや見たことがない場所がたくさんあると気付いた」。
 ディノスシネマズ室蘭では、当面、午前10時半と午後6時15分の1日2回上映する。3日の舞台あいさつには、坪川さんのほか、菜葉菜さん、草野康太さんらが登壇する。
 作品は東京・千代田区の岩波ホールで3月12日まで行われた先行上映で好評を博し、仙台、名古屋、大阪、横浜など、道外では11カ所で公開が決まっている。
 道内では室蘭と同時に札幌のサツゲキでも2日に上映が始まり、5月7日からは函館のシネマアイリスでも公開される。(渡辺愛梨、久保耕平)
映画「モルエラニの霧の中」 全7章のオムニバス形式。214分。各章はそれぞれ異なる物語だが、登場人物や出来事が少しずつ関連しあい、一つの作品を構成している。イタンキ浜や室蘭港などの室蘭市内の景観をカラーとモノクロの映像を織り交ぜ、地域で生きる人々の葛藤や郷愁、温かな人間模様を描く。市民と共に作品をつくるという坪川拓史監督の姿勢に共感した大杉漣(故人)や小松政夫(同)など豪華な俳優陣も参加した。市民キャストは延べ200人。地元有志によるNPO法人室蘭映画製作応援団が制作の中心となり、資金繰り、エキストラ募集や撮影の手配、俳優の送迎、現場での炊き出しも担った。モルエラニはアイヌ語で「小さな下り坂」という意味で、室蘭の語源の一つ。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/529076

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【坪川拓史さん】室蘭が舞台の映画を撮った監督

2021-04-03 | アイヌ民族関連
北海道新聞 04/02 11:00
 2日から札幌・サツゲキなどで公開される、オール室蘭ロケの映画「モルエラニの霧の中」。2014年の撮影開始から7年を経て道民に届けられる。作品は、地元で生きる人々の温かな人間模様などを描いた全7章のオムニバス形式。214分の長編だが、東京での先行上映は好評だった。室蘭出身の監督、坪川拓史さん(49)に手応えや作品への思い、見どころなどを聞いた。(室蘭報道部 渡辺愛梨)
■消えぬ故郷の記憶 100人が100通り感じられるように
 ――2月6日から3月12日まで東京・岩波ホールで先行上映されました。新型コロナウイルスの影響で約1年の延期を余儀なくされましたが、徐々に口コミで広がり、終盤は連日、満席が続いていたそうですね。
 「室蘭にゆかりのない方々も、コロナ禍でも作品を見たいという気持ちで映画館を訪れてくれたことがうれしかったです。期間中、僕も東京でホテル住まいをしながら、延べ50回舞台あいさつをしました。上映後は必ず出入り口に立って、一人一人に感謝の気持ちを伝えました」
 ――反響はいかがでしたか。
 「一般的に映画の感想というと、物語の流れや場面の美しさについてのものが多いですが、この作品に関しては自分自身の話をする方が多かったです。懐かしい人のことを思い出したとか、しばらく会っていない母に連絡したくなったとか…。出入り口で話してくれた方のうち、半数はこれまでの人生を思い出して泣いていました。そこまで映画の内容を自分に重ね合わせて見てくれた。われながら不思議な作品だなと感じました」
 ――室蘭を舞台にした映画を撮ろうと思ったきっかけは。
 「2011年に長年暮らした東京を離れ、生まれ故郷の室蘭に帰りました。子どもの頃の記憶とは違って、室蘭の街並みは人口減少でさびれた印象でした。でも、よく見てみるとすてきな建物が並んでいることに気付いたんです。手始めに、室蘭産業会館をモデルに脚本を書いていたら、その建物が壊されてしまって『これは、まずい』と。室蘭の歴史的で趣のある建物がなくなってしまう前に映画を撮らなくてはと思い、当時の室蘭観光協会会長の平武彦さんに相談しました」
 ――そこから、制作母体となる地元有志の「NPO法人室蘭映画製作応援団」の結成につながったのですね。
 「最初は地方での映画づくりに対して厳しい視線も感じました。でも、徐々に支援の輪が広がって応援団ができたんです。僕の頭の中のイメージを、市民に説明して理解してもらうのは難しいことです。でも、応援団の方々はイメージを忠実に再現しようと、耳を傾けてくれました。地域振興の映画にありがちな、ご当地グルメや観光名所を映さないことを許してくれた。あくまで一つの芸術作品をつくろうと協力してくれました。そういう意味で、この映画は僕の作品というより、応援団をはじめとするみなさんの映画だと言いたいです」
 ――延べ200人の市民キャストも出演しています。
 「上映中に『この人はプロかな? この人はアマチュアかな?』と、考えながら見ていたという人がいました。でも、途中からそんなことはどうでもよくなったみたい。それを聞いて、良いものをつくろうとする気持ちは、プロもアマも変わらないんだなと、改めて考えさせられました」
 ――約5年の撮影期間を振り返って、心掛けていたことは。
 「撮影場所はすべて室蘭ですが、より多くの人に作品のイメージを伝えられるよう、どこでもありそうで、どこでもない画(え)を撮ろうと意識していました」
 ――そこまで時間をかけて粘り強く制作できたのはなぜですか。
 「映画づくりは、途中であきらめさえしなければ、いずれ完成すると思っていましたし、特別な気負いはありませんでした。ただ、途中で妥協していたら、とても人に見せられるものはできません。岩波ホールでの上映も実現しなかったし、記念にDVDにしよう、くらいのクオリティーで終わっていたかもしれない。満開だった桜が1日で散って撮影が延期になるなど、いろんなハプニングはありました。ただ、振り返って改めて思うのは、人ってやることが決まっているんじゃないかなということ。『モルエラニ』を一つの芸術作品として完成させたい思いは変わりませんでした。それが、やりきれた理由かもしれません」
 ――亡くなった俳優の大杉漣(れん)さんや小松政夫さんも出演しています。
 「小松さんとは僕が最初の作品を撮った00年に出演依頼の手紙を出した時からのお付き合いで、僕が今まで作ったすべての映画に出演してくれています。大杉さんにも、この作品を撮る時、手紙を出して映画の趣旨を説明したら、マネジャーの方から『すぐ会いたい』と連絡があって、出演が決まりました。応援団のメンバーも僕もまだ撮影の段取りに慣れていない時期で、現場は手探りの状態。それでも、大杉さんは市民と僕たちが一から映画をつくる姿勢に共感して『できることは何でも協力するからね』と言ってくれました」
 ――物語の中には、モデルがいる話もありますね。
 「第7章の樹木医の話は、実在した方をモデルに脚本を書きました。演じたのは市民キャストの佐藤嘉一さん。撮影の2年後に亡くなりました。岩波ホールでの舞台あいさつは、大杉さんと小松さん、そして佐藤嘉一さんと一緒に立っている気持ちで臨みました」
 ――映画の見どころは。
 「エンドロールと言い続けています。短い1カットにも多くの人の苦労が詰まっているから。物語の中には偶然、登場人物の境遇やせりふが、実際の出来事と重なる部分もあります。上映が延期されていたとき、なぜこんな結末にしたんだろう、なぜこの言葉を言わせてしまったんだろうと後悔したこともありました。でも、岩波ホールでの上映の時、エンドロールの後で自然と観客から拍手がわいて、つくることができて本当に良かったと思いました。『おつかれさま』『よくぞ撮ってくれた』と、いろんな思いが詰まった拍手だったんだと思います」
 ――2日から道内上映が始まります。
 「どんな人にとっても、故郷は消えません。なくなってしまう人や物はたくさんあるけれど、土地にも、人間と同じく記憶がある。なくなったように見えるけど、ずっとある。そんな映画にしたいと思っていました。この1年、世界全体で予想もしない出来事の連続だった。コロナ禍で作品を見る人の状況も変わりました。帰省できず、古里へ思いを巡らせる人も多くいた。そういう意味で、この作品は故郷を映す作品に『成長』したと思います。100人が見たら100通りの感じ方ができるようにつくったつもりです。大杉さんは、撮影を終えて室蘭を離れる時に『モルエラニという名前の船がこれで海に出た。きっと大変なことがたくさん起きると思うけど、いつか必ずきれいなすてきな港に着きます。この船の乗組員の1人になれてうれしい』と言ってくれました。やっと港に着けた。これからモルエラニ号は全国の港に向かいます」
<略歴>つぼかわ・たくし 1972年、室蘭市生まれ、渡島管内長万部町育ち。高校卒業後に上京。劇団「オンシアター自由劇場」などでの俳優経験を経て、独学で撮影などを学び、映画監督となる。旧長万部劇場を舞台にした長編デビュー作「美式天然」(うつくしきてんねん)で、若手映画人の登竜門とされる2005年のトリノ国際映画祭の長編部門で、グランプリと観客賞を受賞。「モルエラニの霧の中」は、19年のサンパウロ国際映画祭の国際長編部門に出品。監督業の傍ら、アコーディオン奏者の顔も持つ。室蘭市在住。
<ことば>モルエラニの霧の中 全7章のオムニバス形式。それぞれ異なる物語だが、登場人物や出来事が少しずつ関連し、一つの作品となる。イタンキ浜や室蘭港などの景観をカラーとモノクロを織り交ぜながら、古里で生きる人々の葛藤や郷愁、温かな人間模様を描く。モルエラニは「小さな下り坂」を意味するアイヌ語。室蘭の語源の一つとされる。俳優陣と延べ約200人の市民キャストが出演。地元有志でつくるNPO法人室蘭映画製作応援団が制作母体となって、エキストラ募集や撮影のスケジュール調整、俳優の送迎、現場での炊き出しなどを担った。クラウドファンディングで制作資金を募り、各地から約200万円が寄せられた。道内の上映は2日から札幌市のサツゲキと室蘭市のディノスシネマズ室蘭で。
<後記> 自分の心にうそをつかない人。取材を重ねるうちに、そんな印象を感じるようになった。自分に正直だからこそ、作品づくりにも余念がない。映画監督になるきっかけは、東京で舞台俳優を目指していた20歳の頃、学生が撮る自主映画に準主役として出演した際、撮影の角度や脚本に文句を言って口論になり、学生から「おまえが撮れよ」と言われ、「わかった。撮るよ」と言い返したことだったそう。坪川さんが語る人生そのものが、まるで何かの物語のようだ。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/528878

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民族 樺太アイヌ民族誌(大貫恵美子著、阪口諒訳)

2021-04-03 | アイヌ民族関連
山陰中央新報 2021/4/3 06:00
 アイヌ民族に対する関心がここ数年高まっている。漫画「ゴールデンカムイ」(野田サトル作)が累計発行部数が1500万部を超える大ヒットを記録、昨年夏には北海道白老町に国立アイヌ民族博物館がオープン...
残り698文字(全文:795文字)
https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/13354

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「将軍の顔」にも影響! 大奥における「正室」「側室」の顔の違いを分析

2021-04-03 | アイヌ民族関連
現代ビジネス 4/3(土) 6:02
ひと頃流行った「ソース顔」に「しょうゆ顔」。この2タイプは、それぞれ縄文人、弥生人の特徴に連なる、日本人のルーツを示すものです。
渡来系の祖先を持つ弥生人が中央集権化の過程で貴族層を形成したことから、"濃い顔"が特徴のソース/縄文人顔が被支配者層のものであるのに対して、"細面の瓜実顔"が特徴のしょうゆ/弥生人顔は「貴族顔」として良い顔という価値観が生まれました。
江戸時代の大奥もそうした価値観が及んだ一例といえそうです。公家出身の正室は260年の大奥史で一貫して華奢な貴族顔でしたが、側室の顔は時代が降るほど貴族顔に近づいてくる、ということが最近の調査でわかってきました。そして、それと同時に、側室を母に持つことが多い将軍も、代を経るごとに顔が変化していったのです。
日本人の顏のルーツから、日本人独特の「美人顏」「高貴な顏」のイメージができあがるまでを、実際に遺骨調査にも携わった著者が解説します。
アフリカ発・原人からの進化につながる原日本人
 先日ご覧いただいた記事〈ヒト属の顔の変化は、サピエンスへの進化そのものだった! 〉で、原人から新人への進化の過程がヒト属の顔にどうあらわれたかをお話しした。原人や旧人が到来しなかった日本列島にも、新人、つまりホモ・サピエンスが4万年ほど前から住んでいたことは、遺跡や石器の証拠から確かなようである。
 まとまって出土したホモ・サピエンスの人骨では、2万年前の港川人のものが、最初期に日本列島にやってきたグループの代表的な形態を示しているものと思われる。それは、「現代人に比べて左右に広く上下に低い頭蓋のフォルム」「側頭筋がはまる側頭骨の側頭窩が深い」「眉間の隆起や額の傾きが大きい」などの特徴が、アフリカ由来の古い時代のサピエンスの痕跡を多く残しているからだ。
 アフリカを出た初期のホモ・サピエンスは、東南アジアを経て周辺に拡散していったが、港川人は、オーストラリ先住民と形態的に似ていること、そして、2020年のミトコンドリアDNAの解析で現代東アジア人すべての根幹に当たる塩基配列を持つことがわかっている。
 彼らが、どう海洋を越えてきたのかは、まだはっきりわからないことが多く、国立科学博物館の海部陽介を中心とする「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」によって、そのルートや航海の実際について検証が進められている。
"濃い顔"と"のっぺり顔"の出現
 日本列島には、その後も海を越えてきた人々の一団があった。2つめのグループである、縄文人となっていく人々である。港川人ら、最初期に日本列島にやってきた人々より、さらに時代を降ってからやってきた彼らの顔は、四角く、彫りが深く、口が引き締まって、いわゆる濃い顔、いわゆる「濃い顔」だった。
 日本にやってきた初期東南アジア人が、おそらく北方のステップ地帯を経由してやってきた人々とも混血して、紋様を施した土器で調理をするなどの進んだ文化にも影響され、より現代化された人になったと考えられる。彼の顔は、世界中の人々の平均的な顔立ちをしている。
 3つめの系統は、約2800年前に中国大陸や朝鮮半島から九州北部~本州西部にやってきた、長円で、平坦で、口がやや出っ張り、のっぺりとした顔の、一般に弥生人と呼ばれる人たち(渡来系弥生人。弥生時代の縄文人の子孫を在来型弥生人という)である。
 彼らの祖先は、冬には零下50度にもなるシベリアでマンモスやトナカイを追っていたらしい。彼らは厳寒の気候に適応して体熱放散の少ない体型に変わっていった。四肢が短くて凹凸が少なく、履いた息でつららができないように体毛が薄くなった。これを寒冷適応というが、のっぺりして、一重瞼の顔もその一環として形成されてきたと考えられる。
 現在、日本列島では、渡来系弥生人の遺伝的影響が強い本土日本人、在来の縄文人の遺伝的影響が強いアイヌ、縄文人と渡来系弥生人の遺伝的影響がおよそ半々の琉球人が、日本列島で暮らしている。これら3つの集団は、いずれもおおもとは縄文人だが、大陸から渡来してきた人々の影響をどれだけ受けたかによって、顔や身体の特徴が徐々に違ってきたのである。
大奥の人たちの顔を変えていった美顔観
 さて、時は降って江戸時代、徳川幕府の中心だった江戸城本丸にあった大奥は、高貴な美女、華やかな着物、複雑な人間関係、陰謀うずまく恐ろしい世界、といったイメージがある。じつは、そんな大奥の女性たちの遺骨を研究する機会が与えられた。2007年から2009年にかけて、寛永寺・谷中墓地の徳川家御裏方霊廟の改葬に際して、将軍親族の遺骨調査に携わることができたのである。
 この調査で、たくさんの人々の頭骨をあわせて全体を見ると、江戸時代の大奥の女性の顔には一定の傾向が見てとれた。庶民と正室と側室では、顔に違いがあることだ。まず、庶民に比べて正室は、頭は広いが、顔は狭く、とくに顔の下のほうが狭くなっていることが一目瞭然である。鼻も狭く突出している。そして側室は、正室と庶民の中間と解釈できる。
 もう1つ、興味深いのは、側室の顔が時代によって違うことである。江戸時代の前期や中期では、庶民と同じような幅広い顔が多いが、後期から末期へ向かうにつれて、正室と同じように細長く華奢な顔が多くなっていく。
 これは、貴族出身の正室の顔が細長く華奢なので、それが高貴な美人のモデルとして、一般に流布した影響と思われる。江戸の中期以降には大奥は、表向きは情報が閉ざされていたが、実際は密かにファッションなどの流行発信地として機能し、まるで現在の芸能界のようだったらしい。
 おそらく浮世絵によって、正室とよく似た細長い顔の美女が艶やかな着物をまとっている姿が日本中にばらまかれたのだろう。その結果、庶民たちは高貴な美人たちの顔と生活に憧れを抱いた。そして、大奥に側室候補として女性を送り込み、あわよくば政治を支配しようと企む人々にとっては、高貴な正室に勝るとも劣らない、将軍の目にとまるような細面の美女を求めたであろうことは想像にかたくない。
側室の顔が変われば、将軍の顔も変わる
 増上寺で発掘された徳川将軍の顔を調べた東京大学教授で、筆者の指導教官でもあった鈴木尚によれば、将軍の顔も、江戸時代の後期には細長く華奢になり、末期では典型的な「貴族顔」になった。では、いったい誰の影響でそうなったのだろうか。
 じつは、初代家康、三代家光、十五代慶喜を除くと、将軍は正室ではなく側室の子どもである。したがって、正室の「貴族顔」が将軍の顔に遺伝的影響を与えたことはありえないのである。むしろ、側室の顔の変遷を考えると、江戸後期以降に側室の顔が正室同様に細長くなったことが、その子どもである将軍に影響を与えたと考えられるのである。
 「細面、超かわいい! 瓜実顔、マジ美人!」といった紋切り型の価値観が、父将軍の側室への寵愛を得るという間接的な手段により、世継ぎである次将軍の顔に影響を与えたともいえるだろう。
「瓜実顔は美しい」と日本人の形成過程
 こうした大奥の美女をはじめ、浮世絵などに描かれる美人が細面で瓜実顔なのは、さきに述べた日本人の形成過程が関係している。
 渡来系弥生人の人々は、日本列島の中央部を占拠し、古墳時代以降に中央集権国家を築き、平安時代にはさらに、貴族階級を形成することになった。『源氏物語絵巻』を見ると、貴族たちは「引目鉤鼻」の平坦でのっぺりした顔に描かれている。富と権力を手に入れ、 進んだ技術力と華やかな文化をわがものにした彼らの顔は、「良い顔」「福々しい顔」と見なされ、さらには「日本的な顔」として認識されていった。
 その一方で、大昔から日本に住んでいた縄文人の子孫たちは、中央の権力に従わなかったために、そのはっきりした顔が「人相の悪い顔」「泥棒の顔」とされ、甚だしきは「鬼の顔」にされてしまった。歌舞伎の泥棒の顔は、顔半分が黒く塗られている。
 つまり、顔がステレオタイプにパターン化され、社会的差別が生じたのだ。 だから、浮世絵に描かれる美人や役者の顔は、一重の切れ長に描かれている。これは、平安時代以降、江戸時代に至るまで、北方アジア人の血を引くと見なされる渡来系弥生人のような顔がよいとされていたことを示している。
 明治以降に、欧米の文化が入ってくると、 欧米人に対する憧れから、ヨーロッパ人の顔に似た縄文人のような顔に対する偏見が薄れていき、昭和の終わりには「しょうゆ顔」(=弥生顔)と「ソース顔」(=縄文顔)などの表現も生まれ、一斉を風靡したことを覚えている人も多いだろう。
貴族顔が行きすぎると、命取り!?
 さて、将軍が育った大奥における顔の変化は、過度に軟らかい食物を食べるという食生活の影響も大きかったことも忘れてはならない。食生活の影響による口腔の変化は、健康状態に結びつく。
 八代将軍吉宗の生母で紀州藩主徳川貞光の側室であった浄円院は庶民型の顔で、高齢にもかかわらず遺骨には大部分の歯が残っていた。
 それに対し、京都の宮家出身の九代将軍家重の正室であった証明院は、死産により早世しているが、その顔は華奢で、遺骨には若いにもかかわらず下顎切歯がなくなっていた。おそらく歯周病が進んでいたと思われる。
 さらに、貴族や大名ではなくとも、階級が事実上固定されていた江戸時代には、食生活が豊かさによってずいぶん違っていて、その影響が顔にあらわれてきた。最近、国立科学博物館の坂上和弘氏の研究により、江戸時代は庶民でも身分あるいは所得によって、顔が違うことがわかった。高価な甕棺(かめかん)に埋葬されていた人々と、安い早桶(はやおけ)に埋葬されていた人々の顔を比べると、前者の顔のほうが細長くなっていたのだ。
 こうした顔の形、特に口腔(下顎骨や歯、内腔容積)が、縄文人のしっかりしたものから、古墳時代、中世を経て、江戸時代に至るまで徐々に小さくなっていくことが、遺骨から見ることができる。しかし、将軍や大奥の貴人、公家などの特別な人を除けば、昭和の中頃までは大きな歯並びが大きく乱れた人は少なく、総じて健全な咀嚼機能を持っていた。危惧すべきは、昨今の若年層では、かつての将軍や公家よりはるかに小さくき弱な口腔を持ち、歯並びの悪い人が増えていることだ。
 本来、渡来系弥生人の影響を強く受けている本土日本人の大部分は、世界中の人々の中でも歯が大きく、歯槽骨の発達が充分でないとすべての歯が並びきれなくなり、甚だしい場合は乱杭歯になってしまう。また、下顎骨の発達が未熟だと、口腔容積が十分な大きさにならず、睡眠時無呼吸症候群になりやすく、心筋梗塞や脳梗塞の引き金となりかねない。
 ヒト属の進化の重要なポイントとして口部(口腔)の発達を、先日の記事で取りあげたが、現代、そして未来に連なる私たちヒトの健全なあり方も口部が重要な鍵を握っている、といえるだろう。
----------
「顔」の進化
あなたの顔はどこからきたのか
そもそもなぜ顏があるのか? 顏は何をしてきたのか? 太古の生物の体の最先端に、餌を効率よく食べるために「口」ができたときに、顏の歴史は幕を開けた。その後の激動は、いかにしてあなたの顔をつくったのか? 思わず鏡を見たくなる、顏に刻まれた進化の妙! 
https://news.yahoo.co.jp/articles/e86b57ae2021ece78938e91ccf486e41dea3e56b?page=1

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沖縄の若者が、泡盛を飲み、三線を弾きに集まる小路――中野・昭和新道商店街

2021-04-03 | ウチナー・沖縄
本がすき 4/2(金) 16:00
コロナ禍で海外旅行に出られない日々が続きます。忙しない日常の中で「アジアが足りない」と感じる方へ、ゆるゆる、のんびり、ときに騒がしいあの旅の感じをまた味わいたい方へ、香港、台湾、中国や東南アジアの国々などを旅してきた作家の下川裕治が、日本にいながらアジアを感じられる場所や物を紹介します。
 僕が沖縄病に罹っていた20数年前、那覇はまだアジアのにおいが残っていた。僕にとっての沖縄はアジアの先にあった。沖縄は日本とアジアの中間にある島なのだが、僕はまずアジアにはまり、やがて沖縄に出合うことになる。沖縄に漂っていたアジアのにおいはかすかなものだったのかもしれないが、僕の体内にはアジアへの受容体がたっぷりあったから、鋭敏に反応したのかもしれない。
 一時期、僕の沖縄病は重症だった。電車に乗り、「沖電気」の「沖」に反応し、テレビの天気予報を観ると、暮らしている東京より、左隅に表示される沖縄の天気のほうが気になった。
 東京にいてもいつも沖縄が体を支配する。神奈川県の鶴見に出かけたのは当然の流れだった。そこにはリトルオキナワがあるはずだった。京浜東北線の鶴見駅で降り、海の方向に向かって歩きはじめる。潮鶴橋を渡る。事前に調べた資料では、この先が潮田で、リトルオキナワが広がっているはずだった。
 しかし沖縄にはなかなか出合えなかった。沖縄料理店の看板はあるのだが、閉まっている店が多かった。仲通りに出た。ここがリトルオキナワの中心だったあたりだ。ここも寂れていた。途中に沖縄会館という3階建ての古いビルがあり、1階に「おきなわ物産センター」という看板が出ていた。なかに入ってみたが、客はほとんどいなかった。
 リトルオキナワは消滅しつつある?
 資料を読むと、この一帯の最盛期は戦前だった。造船所があり、全国から労働者が集まってきた。潮田には600軒を超える飲食店があったという。
 しかしそこに貼りだされた言葉が、気になった。
「朝鮮人、沖縄人お断り」
 この話は沖縄でも聞いていた。沖縄の人たちが本土に向かうとき、この言葉が、喉に刺さった骨のように浮かんでくる、といった沖縄の人がいた。沖縄病に罹っていた僕は虚を突かれたような気になったものだが、その貼り紙が出たのが潮田だったようだった。
 このエリアに住んでいた人々の思いをまとめた『記録』(1982年発行)という冊子がある。そこにこんな文章が掲載されている。
「──子供は五人いるが、子供たちが“琉球”とバカにされたくない。家も沖縄の人のいないところにと移っていった。子供たちは自分たちをウチナンチュだとは思っていない。奥さん自身、沖縄の人とは付き合いたくなかった」
 鶴見のリトルオキナワの衰退の一因は、そんなところにもあったのかもしれなかった。
 東京という街のなかに紛れるようにしてある沖縄……。そういうことなのかもしれなかった。沖縄料理店は中央線の沿線に多いとも聞いたが、それがひとつの沖縄ワールドをつくるほどではなかった。
 しかし東京のなかの沖縄に、ひょんな所で出合うことになる。タイのチェンマイだった。そこで新里愛藏という沖縄出身の老人と出合うことになる。彼はチェンマイに来る前、中野で『山原船』という沖縄飲み屋を開いていた。彼とのつながりが生まれ、やがて東京の三線愛好会などと話をするようになった。
 そして分け入ったのが、中野の昭和新道商店街だった。『山原船』はそこにあった。いまはすぐ近くに『あしびなー』という沖縄居酒屋がある。新里愛藏の『山原船』を引き継いだような店だった。新里愛藏は絵も描いた。彼の絵が店内に飾ってあった。
 昭和新道は中野駅北口から北にのびるアーケード街から東に2本ほどのところにある路地だった。三線愛好会はここでよく練習をしていた。それが終わると飲み会。僕はそれを見計らって店にいくようになった。
『あしびなー』に出入りするようになり、ここがオキナワタウンと思うようになった。
 昭和新道商店街に沖縄居酒屋が多いわけではなかった。4軒ほどだろうか。しかし店にいると、近隣の店で働く沖縄の若者がよく顔をだした。新宿で働いている若者は、店にやってきて、延々と三線を弾き続けていた。なにかを忘れたいために弾いているようでもあった。そして終電を逃がすと、店で寝ていった。『あしびなー』はそういう店だったのだ。
 新里愛藏さんの本を書くことになり、昭和新道商店街についても調べた。この路地が沖縄を意識してできたわけではなかった。
 戦後、多くの若者が出稼ぎで東京にやってきた。しかし本土と沖縄の間にある溝に悩み、言葉の壁にぶつかった。そのなかで新宿区や中野区に「郷土の家」ができる。そこは東京に長く暮らす沖縄出身者が、週末、自宅の一室を沖縄の若者に提供するものだった。沖縄からきた若者は、ここに集まり、泡盛を飲み、三線を弾き、エイサーを踊った。
 中野区の「郷土の家」は上高田にあった。中野駅からそこに向かう道……昭和新道商店街だった。
 ただそれだけで?
 しかし『あしびなー』にいると、この路地の役割がわかってくる。
 中野は沖縄の祭りが多い。中野チャンプルーフェスタ、沖縄とアイヌがコラボするチャランケ祭り……。それ以外のさまざまな祭りに、三線やエイサーのチームが出演する。その打ち合わせや練習が、毎夜のように昭和新道商店街で行われているのだ。
「タカオはどこにいる?」
『あしびなー』に顔を出した青年が沖縄方言で話しかける。
「アマンで三線、練習してたさー」
 昭和新道商店街はそういう通りだ。オキナワタウンだと思う。
https://news.yahoo.co.jp/articles/ce3b189414999f0be52b5fdbc7a756eb18a022e8

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