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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

3DCGを駆使 新演目「火のカムイの詩」披露 阿寒湖アイヌシアターイコロ

2021-04-18 | アイヌ民族関連
北海道新聞 04/18 01:46 更新

 【阿寒湖温泉】アイヌ古式舞踊などを上演する劇場「阿寒湖アイヌシアターイコロ」(釧路市阿寒町)は17日、3DCG(3次元コンピューターグラフィックス)を駆使した新演目「阿寒ユーカラ『火のカムイの詩(うた)』」を地元の住民ら約70人に披露した。29日から上演する。
 「火のカムイの詩」は、古式舞踊と儀式で構成していた従来の演目「イオマンテの火まつり」を現代風にアレンジ。地元のアイヌ文化伝承者の故四宅(したく)ヤエさんが語り残した物語などを基に、舞台上に阿寒の自然を立体的に映し出し、歌や踊り、伝統楽器の演奏でアイヌ民族の世界観を表現した。
 舞台監督で阿寒アイヌ工芸協同組合理事の床州生(とこしゅうせい)さん(55)は「アイヌ民族の考え方を分かりやすく伝えるため、日本語に節を付けて語るなどの手法も取り入れた」と話す。
 5月5日までは午後4時半から上演。上演時間30分で料金は一般2千円、小学生700円。同6日以降の上演日程は、同シアター(電)0154・67・2727へ。(熊谷知喜)
◆阿寒湖アイヌシアターイコロのロは小さい字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/534462

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ウポポイで調理体験プログラム担当 新谷裕也さん(30)アイヌ民族文化財団の体験教育課主事 食文化の発信続けたい

2021-04-18 | アイヌ民族関連
北海道新聞 04/17 19:31

しんたに・ゆうや 札幌出身。母親は平取町出身のアイヌ民族。高校を中退後、木彫りなどを学び、札幌市アイヌ文化交流センターに勤務。2014年からアイヌ民族文化財団(札幌)の伝承者育成事業を白老で受講し、旧アイヌ民族博物館を経て18年4月から現職。今年4月からは伝統的コタン(集落)ゾーンで踊りの披露や、アイヌ民族の暮らし、文化の解説を担当している。
しんたに・ゆうや 札幌出身。母親は平取町出身のアイヌ民族。高校を中退後、木彫りなどを学び、札幌市アイヌ文化交流センターに勤務。2014年からアイヌ民族文化財団(札幌)の伝承者育成事業を白老で受講し、旧アイヌ民族博物館を経て18年4月から現職。今年4月からは伝統的コタン(集落)ゾーンで踊りの披露や、アイヌ民族の暮らし、文化の解説を担当している。
 白老町に昨年開業したアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」ではアイヌ古式舞踊や木彫、刺しゅう体験などさまざまなプログラムが行われている。アイヌ民族の料理を通じて、暮らしや文化を学ぶ調理体験プログラムを3月まで担当した新谷裕也さん(30)に、プログラムの楽しさや伝統の食文化の魅力について聞いた。
 ――調理体験の内容について教えてください。
 「土日祝日限定のプログラムとして昨年11月からスタートし、1日に1回ずつ予約制で実施しています。季節ごとの食材を使い、アイヌ民族の伝統的なサケの汁物チェプオハウや、シカ肉の薫製の汁物カモハウ、ギョウジャニンニクの炊き込みご飯のプクサメシなど、さまざまな料理を月替わりで提供してきました。下準備した食材を職員が手助けしながら調理するので子どもでも楽しめます」
 ――これまでの手応えはどうですか。
 「現在は1回2組までの受け入れですが、今年に入ってからはほぼ満員で小学生から高齢者まで幅広い年代が参加しています。『初めて食べたがおいしかった』『楽しみながらアイヌ文化を学べた』と好評です」
 ――プログラムで意識したことは何ですか。
 「気軽に味わってもらえるよう、昔のアイヌ民族の料理に現代の感覚や味付けを取り入れて表現してきました。例えば、アイヌ民族にはサケの皮を煮込んで出たゼラチンに果実を混ぜ込んで作る煮こごりのような『ムシ』という料理があります。調理体験では現代人が食べやすいように、ゼリーにハスカップジャムとアイヌ民族が親しんでいた野草ナギナタコウジュの『エント茶』を入れて再現しました。現代風にアレンジした料理を提供するときは、必ず基となった料理やアイヌ民族の考え方を説明します」
 ――食材へのこだわりや料理の魅力は。
 「珍しい食材をおいしく楽しんでもらおうと、調達にも力を入れます。シカ肉やサケは生のまま仕入れてウポポイで薫製にしたものを使用しています。食材については、余すところがないという精神がアイヌ民族の料理の魅力です。実際に自分でサケをさばいてみると、頭から骨まで捨てるところがないことを実感しました。地域ごとに味付けや調理方法に違いがあることも面白いです。こうした先人の工夫や知恵もプログラムでは紹介しています」
 ――今後の目標を聞かせてください。
 「ウポポイからアイヌ民族の食文化の発信を続けていきたいです。新型コロナウイルスの収束後は各地方の伝承者をウポポイに呼んで、地方のアイヌ民族料理を振る舞うイベントを開催できたら楽しそうだと思っています。今後は儀式で使う供物の料理やトノト(神酒)作りをはじめ、アイヌの食文化の研究を続けていきたいです」(聞き手・斎藤佑樹)
◆チェプオハウのプは小さい字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/534420

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The National 2021ーー開催中/ボランティアガイド便り

2021-04-18 | 先住民族関連
日豪プレス 2021年4月17日

Abdullah M.I. Syed ‘Currency of love’2016–20(detail). Photography by Mahmood Ali Ahmed and Zainab Nasir. Courtesy the artist and Gallery Sally Dan Cuthbert, Sydney © Abdullah M I Syed
 「The National 2021」は、2017年、19年に続き、今年で3回目となる、現代オーストラリア・アートの最新のアイデアや形態を探ろうとする展覧会です。
 これまで同様、NSW州立美術館(AGNSW)、Carriageworks、オーストラリア現代美術館(MCA)の3会場にて9月5日まで開催中。どの会場も入場無料です。
 過去2回の展覧会では、3会場に60万人以上の入場者を動員し、現代オーストラリアン·アーティスト149人に、その後の芸術家としてのキャリアを決定付ける機会を提供しました。今回は、3会場全体で39のプロジェクトが展示されます。
 現在、オーストラリア国内で活躍するあらゆる年代、文化的バックグラウンドを持つ、そのキャリアも多様なアーティストたちによる作品やプロジェクトを織り交ぜ、絵画、写真、フィルム、彫刻、インスタレーションなど、最新のアート作品が展示、発表されます。
 AGNSWでは14作品を展示し、今を生きるアーティストたちの映し出す人と自然の関係―壊れやすい自然や生態系、環境、社会など―に目を向け、人、物、地球を守るためのアプローチを探ります。先住民族の知恵や物の見方、あり方を考慮に入れた多様なアート表現でアーティストたちが問いかけます。この機会に世界やオーストラリアの今を見つめに美術館にいらしてみませんか?
 なお、AGNSW常設展日本語ツアーは現在、休止となっております。ご了承ください。
NSW州立美術館
オーストラリアの主要な美術館の1つで毎年約100万人が訪れる。オーストラリアとアボリジナル・アート、現代アート、ヨーロッパやアジアからのコレクションを持つ。市内の中心から徒歩約15分のシドニー・ハーバーを臨む立地。日本語を含むアジア言語のボランティア・ガイドもおり、本連載は同館の日本人ガイドが執筆を担当している。
https://nichigopress.jp/live/nsw-art-gallery-news/205118/

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幕府のご意見番・徳川斉昭 失脚からの復活劇のカギは“愛民思想と黒船来航”

2021-04-18 | アイヌ民族関連
PHPオンライン衆知 2021/04/17 12:00

いつの時代でも改革者は弾圧されるが、明治維新に影響を与えた水戸藩主・徳川斉昭も例外ではない。しかし日本を想う熱き男にも思わぬ形で改革の機会が訪れた。
江戸幕府を倒し、近代日本を創り上げたのは「薩長土肥」と言われるが、水戸藩なくして、維新は成し遂げられなかったといっても過言ではない。長州の吉田松陰も、薩摩の西郷隆盛も、「水戸学」の影響を受けていたのだ。では、水戸学とはいかなるものだったのか――。ハーバードに学び、イェール大学で教鞭を執る新進気鋭の歴史学者マイケル・ソントンが、明治維新を「水戸」の視点から読み解く。
本稿では、徳川斉昭が一度は失脚しながらも再び幕政改革を押し進め、水戸藩主でありながら幕府のご意見番に至った経緯に迫る。
※本稿は、マイケル・ソントン著『水戸維新』(PHP研究所)より、一部を抜粋編集したものです。
老中・水野忠邦との連携で"ご意見番"に
藤田東湖による田畑の検地、弘道館の建設、武士の土着化など、いくつかの藩政改革に加え、徳川斉昭は、費用の節約や藩政の統一を図る対策として、江戸の水戸藩邸に常住する家臣のうちから約200名を国元へ戻した。
こうした改革が成功を収めると、斉昭は幕政への関心を高め、天保9年(1838)、『戊戌封事』と題する長大な意見書を幕府に提出する。
それは、賄賂の横行をはじめとする道徳の弛緩、外交問題、財政問題、行き過ぎた商業活動といった、当時の課題への批判と対応策を示し、水戸藩を参考に幕府に改革を促すものだった。
のちに、この『戊戌封事』やその解説などがまとめられて出版され、各地の武士たちの間に広まっていった。また、当時の幕府老中の一人である水野忠邦は、斉昭に丁寧な返事を送り、提案された改革を受け入れる態度をみせた。
天保10年(1839)、その水野が老中首座に就任し、幕府の実権を握った。彼は斉昭の考えに影響を受けつつ、財政再建や奢侈の禁止、農業振興など、いわゆる天保の改革に着手する。
ただし、水野は斉昭の見方と異なる立場もとっている。文政8年(1825)に出された無二念打払令を緩め、天保13年(1842)には天保の薪水給与令を出して、外国に対する融和的な政策に転じたのは、その代表的な例だ。
積極的な国防政策を論じてきた斉昭は、当然のごとく水野の対外政策に激怒した。それでも両者の協力関係が失われたわけではない。
幕府との良好な関係の下で、開放的な性格と率直な物言いで広く信奉者を得た斉昭は、「御三家のリーダー」「幕府のご意見番としての副将軍」といった評価を受けた。それは、彼が幕政改革を推進する基盤の一つとなったのである。
こうした点で、斉昭は成功を収めたといっていいだろう。しかし、水戸藩、国政を問わず、その攻撃的な手法と伝統的な権威への攻撃は、多くの敵を作った。
水戸藩の保守門閥派は改革を嫌い、質素倹約令の締めつけや、藤田東湖のような下級武士の昇進に対して恨みを抱いた。天保10年には70余人が、改革の撤回と斉昭の予定した就藩(お国入り)の延期を強訴している。
幕府側においても、複雑な派閥政治に直面した水野の立場が強固であるとはいえなかった。その上、幕府の改革は混乱をもたらす側面もあり、不満が拡大していた。
したがって、水野の協力をある程度得られたにもかかわらず、江戸と水戸における政治環境は、斉昭にとって安定しているとはいえなかったのである。
蝦夷地への植民と失脚
財政改革や農業振興を推し進めた斉昭だが、水戸藩の財政悪化に終止符を打てなかった。藩の収入を増すために、より野心的な構想として打ち出されたのが、蝦夷地開拓による水戸藩の増封である。
二代藩主の光圀以来、蝦夷地は水戸藩が交易を目指した場所だった。そのことを知っていた斉昭は、天保5年(1834)以降、数度にわたって幕府に蝦夷地開発計画を提出し、その様々な目的を繰り返し主張した。
まず強調したのは国防である。蝦夷地は日本の安全保障上、重要な場所であることを強調し、18世紀末にロシアが南下してきた前後に考えられた蝦夷地統治案を、再び進めるように幕府を促した。
ロシアの脅威に対する「北門」の守りの脆弱さは、「神国の大患」であるとし、幕府が積極的な防衛政策をとらなければ、外国から侮りを受ける危険性があることを暗に述べている。
「農業などの移民を奨励し、蝦夷地、千島列島、樺太といったアイヌの土地を、完全に日本の統治下に置く」ことを、斉昭は主張したのである。しかし、寛政11年(1799)、幕府は蝦夷地を天領化したが、文政4年(1821)に松前藩へ返している。つまり、幕府は直轄化に失敗した過去があった。
幕閣は蝦夷地開発の必要を認めつつも、斉昭が天保10年に提出した大胆な提案を、受けつけようとしなかった。この時の提案は、水戸藩を嫡子に任せ、斉昭が家族とともに蝦夷地へ移住するというものであった。
具体的には、若い家臣たちや農民・職人を水戸から引き連れていき、蝦夷地に城と町を作って広大な植民地の中心地に据え、蝦夷地を一大穀倉地帯に変える。この植民地を日本の北辺防備の要とする、という考えであった。
再三にわたって、斉昭はこの意見書を検討するよう幕府に促したが、老中の大久保忠真や水野忠邦は曖昧な態度に終始した。斉昭が北方に独自の基盤をつくることで、幕府に対する潜在的な脅威になりかねないという批判が、幕閣内から出たからである。
・水戸藩内にある改革反対勢力の存在
・幕閣との緊張関係
・領土的野心の証拠として使われてしまいかねない蝦夷地開発計画
ここに斉昭が転落する条件は揃い、反斉昭勢力が反撃を始めるまでに時間はかからなかった。天保14年(1843)、ある程度の協調を保ってきた水野忠邦が失脚し、反改革派が幕政の中心に返り咲いた。
「幕府の特別な配慮」と称して、5,6年の在国許可を与えられ、体よく江戸の政治から遠ざけられていた斉昭は、江戸に呼び戻されてから隠居謹慎を命じられる。天保15年(1844)5月のことである。
幕府が藩主に隠居を申し渡すことは、小藩や外様大名に対しては珍しくないが、御三家の当主に対してはあまり例のないことだった。
この処分の公式な理由として、1.大砲製造と鉄砲の揃打、2.財政難の偽り、3.蝦夷地への執着への疑い、4.浪人の召抱、5.水戸東照宮の祭儀変更、6.寺院破却、7.弘道館の土手の高さ(無断築城の疑い)の7カ条に加え、非公式での追鳥狩の実行などの5点が挙げられた。
これに対して、斉昭は一つずつ理由を述べて反論したが、幕府は取り合わなかった。斉昭は不服ながらも、藩主の地位を13歳の嫡男・慶篤に譲り、江戸の水戸藩中屋敷駒込邸での謹慎生活に入った。
これに伴い、藤田東湖、会沢正志斎、戸田蓬軒など、藩の要人となっていた改革派のほとんどが解任され、蟄居や幽閉の処分にあった。そして、門閥守旧派が藩政の主導権を握り、斉昭の改革は中断するのである。
藩士・農民たちによる雪冤運動
斉昭の処分が水戸藩に伝わると、改革派は雪冤(冤罪を雪ぐ)運動を起こした。弘化元年(1844)7月、農民の一団が江戸に上って、各藩の屋敷に赴き、斉昭の無実を訴えた。
続いて、処分を受けていなかった改革派の藩士たちも江戸に上り、幕閣に上書を提出し、神官たちも江戸で斉昭の赦免を求める活動を展開した。
斉昭はこうした運動を心強く思いながらも、藩士・農民たちの江戸行きを慎むよう、藩庁・郡奉行所を通じて通達させた。自らの進退に関することで、水戸藩を崩壊させるような挙に出るのを望まなかったのである。
というのも、彼らの行き過ぎた行動が幕府を刺激し、御三家当主に対する隠居謹慎という異例の申し渡しを行なった幕閣が、改易や減封などの処置に出ないとも限らない、という危惧が頭をよぎったのであろう。
斉昭が謹慎になってから100日後、幕府は幽閉の条件を多少緩めたものの、解除には至らなかった。この間も雪冤運動は広がりをみせ、水戸の士民が江戸に上って運動を展開したため、江戸の一部は騒然となった。
10月16日には水戸藩南部の農民約4,000人が千束原(水戸市)に、他の地域から農民約5,000人が清水原(那珂市)に集まり、斉昭の解放を要求した。その中には、江戸に出府しようとした義民集団もあったという。
改革派の藩士たちがこれをけしかけたとの噂が流れたが、ほとんどの農民たちは自らの思いで参集していた。これは斉昭の愛民の思想と農村への気遣いにより、農村に斉昭支持が広がっていたことを如実に示している。
こうした運動が奏功したのか、処分から200日後の11月末に、斉昭の処分は解除された。雪冤運動に加わって江戸に上った農民と藩士は一定の処罰を受けたが、かえって真の忠義者としてみられた。
改革派の中には、雪冤運動に積極的ではなく、事の成り行きを傍観した「柳派」と呼ばれる穏健派もいた。斉昭の雪冤をめぐって「不忠不義を討つ」とする「天狗派」と、穏健な柳派とに改革派が分かれ、彼らの共通する敵として保守門閥派が存在することになった。
こうして水戸藩では、イデオロギー的な断層が拡大していったのである。斉昭は謹慎を解除されたものの、以前のように政治の陣頭指揮に立つことは許されなかった。若い慶篤は名目だけの藩主であり、水戸藩の実権は保守門閥派が握っていた。
斉昭と改革派の行動を恐れた保守門閥派は、多くの改革派藩士を処罰するとともに、隠居となった斉昭の側近くまで間諜を放って監視した。これに対して斉昭は「神発仮名」という字を発明し、これを暗号のように使って、支持者たちと手紙をやりとりした。
斉昭の支持勢力は、水戸支藩の要人、御三家の尾張家、紀伊家、幕閣、諸藩の大名などへ直訴するなど、様々な手を尽くし、斉昭の藩政復帰を働きかけた。
しかし、同情的な声は多くとも、幕府に逆らってまで斉昭を支援する動きにはならない。そうして一年以上が過ぎた弘化3年(1846)春、一人の奥医師の下女によって希望の光が差し始めた。改革派の元水戸藩士・中村平三郎の娘は、江戸城大奥に勤める奥医師・坂玄幽の子・玄益の下で働いていた。
斉昭に同情的だった坂父子は、斉昭の支持者に対して「強引な嘆願は将軍を困らせるだけだ」と警告するとともに、「より丁寧で効果的なアプローチ方法として、大奥の女中の説得を通じて、斉昭の罪を解いてもらうべきだ」と助言したのである。
改革派は坂の助言に飛びついた。水戸徳川家は将軍家、有力大名などと養子や婚姻の縁を結んできたので、大奥の女中たちとつながりがあった。それを生かして、斉昭自身が贈り物をし、将軍・家慶への取り次ぎを依頼した。
しかし、それは大奥の内政事情で行き詰まってしまう。上臈であった姉小路と大奥年寄の三保野という、大奥の最高職を務めていた二人がライバル関係にあり、交渉が微妙なものとなったのだ。
最終的に斉昭の申し出は曖昧な返答を受け取っただけに終わり、斉昭の支持者たちは、複雑怪奇な大奥ルートをあきらめるしかなかった。
外国の脅威に対する「不可欠な人材」として
大奥に対して斉昭復権のロビー活動が行なわれている間、はるか彼方の出来事が、日本国内の政治状況を変え始めた。
英国がアヘン戦争で清を破った天保13年以降、開国通商を求める西洋諸国の数が増えた。西洋の帝国主義による勢力拡張が、新しいレベルの強度をもって東アジアに到達しようとしていたのだ。
幕府は、もはや外国を拒絶し続ける余裕がなくなりつつあり、外国勢力に対応すべく、防衛・外交に関する最善の専門知識を組織化する必要に迫られた。そこで、斉昭の存在が浮かび上がる。
当時、西洋諸国に対する国防を担える人物は、斉昭以外にはいないとみなされていた。斉昭は対外強硬の国防論で知られており、軍事改革と外国船排除の毅然たる政策を幕府に要求してきたし、水戸藩における軍事改革と蝦夷地に関する提案は、その名声をより高めたからである。
1840年代の西洋諸国の接近を知り、斉昭は、老中・阿部正弘にたびたび書簡を送っていた。そこには、オランダ国王の国書などの閲覧を求め、英仏の来航にどう対応すべきかの意見が綴られていた。
弘化3年、アメリカのジェームズ・ビッドル提督が江戸湾の沖合に到着した頃、斉昭は海防に関するご意見番のような立場を築きつつあったのだ。
阿部正弘は、水野忠邦が失脚した後の天保14年に老中に就任し、権力を握った人物である。阿部は幕府の中心となって斉昭の処分を進めたが、外国の脅威に対応する必要性が高まるなかで、斉昭が不可欠な人材であることを認識していた。
ビッドルの来航後の弘化4年(1847)、阿部は、斉昭の七男・慶喜が御三卿の一つである一橋家を継ぐように周旋し、将軍継嗣の候補者とした。ここから幕府と水戸藩の関係修復が慎重に進められていく。
弘化5年(1848)、保守門閥派に握られている水戸藩の政権を批判し、改革派の処分を若干緩和させた阿部は、嘉永2年(1849)半ばには、斉昭が藩政に参与することを許した。
嘉永元年(1848)12月に、有栖川宮家の線姫(幟子女王)を12代将軍・家慶の養女として、水戸藩主の慶篤に輿入れさせることが決まり、翌年9月には、将軍・家慶の水戸藩小石川邸への御成を実現する。
そして、嘉永5年(1852)の年末、将軍・家慶が斉昭を江戸城に招いた。ここに完全な関係修復が成った。年が明けて6月、開国を求めるアメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書を携えて、マシュー・ペリー提督が江戸湾に来航した。
斉昭の復権は、はからずも「来るべき大混乱」の直前に果たされたといえるだろう。阿部は助言を受けるために、斉昭を嘉永6年6月、幕府の海防参与に任じた。それとともに、日本中の大名たちに意見を求め、時局への対処を図った。
200年以上、外交は幕府の専権事項であり、その前例を破ったことは幕府のもつ外交権を弱体化させる危険な動きだった。しかし、できるだけ多くの意見を集めて対応することが、当時としては誠実な対応ではあった。
海防参与に任じられた斉昭は、蟄居させられていた藤田東湖と戸田蓬軒の罪を解かせ、海岸防禦御用掛に命じて補佐させた。そして7月に10カ条、8月に13カ条の提言を幕府に提出したが、これらはのちに『海防愚存』としてまとめられた。
そこには、「戦争準備のための全面的な改革を実施する」「和睦か決戦かを決断する」「海岸防備に庶民も兵隊に加える」「外交策謀を使って、日本が防衛を整えるまで時間を稼ぐようにする」などの意見が書かれていた。
さらに、方針が決定したら、国を挙げて結束するよう、全国に正式な命令を発することを促し、この年の11月に実施された。また斉昭は、水戸藩主が年来願ってきた、蝦夷地の直轄支配について幕府に要求した。
その結果、安政2年(1855)には蝦夷地の天領化が実現し、広く開拓の募集が行なわれた。水戸藩は、石狩地方における産物取引所の経営に関与することになった。斉昭の指導力は、黒船来航で不安に陥った江戸の士民を興奮させ、斉昭を大将軍に描いた瓦版が出回るほどであった。
数年にわたって、斉昭による倹約や奢侈禁止などを揶揄していたはずの士民は、対外的な極度の緊張感のなかで、祈るような気持ちで斉昭をあがめる対象にまで祭り上げたのである。斉昭が主張する「国内に防備強化を訴える」という計画は、うまくいっているようであった。
強硬派の守護者としての斉昭の評判は、江戸を越えて全国に広がり、越前藩、薩摩藩、宇和島藩、土佐藩などの藩主と斉昭との連合が形成された。
これら諸藩の藩主やリーダーたちは、斉昭や水戸学者たちの書を読んでおり、有能な指導者に発言権をもたせて改革を導入し、外国の脅威に対抗しうる国をつくろうとするビジョンを共有していた。
一方、水戸藩内において、8年にわたる保守門閥派統治で中断した軍事、教育、宗教の改革を、斉昭は再始動させた。彼は保守派に対して断固たる態度をとり、その多くを自宅謹慎や役職追放に処したために、彼らの怒りを買った。
そうしたなかで、前藩主である斉昭と現藩主の慶篤の間に、楔を打ち込もうとする企ての噂が流れた。実際に保守派は、斉昭の統治によって水戸藩士の大部分が排除されていると論じ、不公平で一方的であると慶篤に訴えた。
しかし、保守門閥派の反論をものともせず、斉昭は以前より意欲的に改革を進めた。教育においては藩内に多くの学校を建て、藩校・弘道館の本格的開館と拡張を実行したし、軍事面では、農兵の採用(土佐藩とならび全国で最も早い事例)を行ない、大砲製造のために反射炉を築いている。
安政3年(1856)に、保守門閥派の首領の一人とみなされていた結城寅寿を、表面上は賄賂と汚職の罪状で処刑した。これは、結城とその一派が、斉昭の再度の失脚や暗殺を計画しているとの噂に突き動かされたものであった。
処分の断行で斉昭の威光は示されたが、この行動は拙速であり、斉昭は疑心暗鬼に陥ったように映る。特に、安政2年の大地震で、右腕ともいえる藤田東湖を失ってから、その傾向は顕著になったようだ。
「派閥主義の助長」「改革の妨害」などの理由で、保守門閥派の藩士を逮捕・処分が続き、水戸藩内の保守門閥派と改革派の間の緊張は、さらに高まることになった。それから間もなく、江戸における斉昭の地位が低下し始めた。
嘉永6年に将軍・家慶が亡くなり、家定が跡を継いだが、30歳にして子がなく、病弱だった。そのため、将軍の継嗣問題が起きると、斉昭は実子である一橋慶喜を後継として薦めて回った。
これが紀州藩主・慶福を推す反対派を苛立たせ、さらには斉昭と同盟していた大名からも、事態を静観するようにたしなめられている。
老中の阿部は、反斉昭陣営を宥めるために、その代表格の一人である堀田正睦を老中の一人に推挙したが、この動きが裏目に出て、幕府内でも分断が起きた。斉昭を支持する若い藩士たちも反斉昭勢力の昇進に不満を抱き、激しく抗議を行なった。
幕政の大転換は、安政4年(1857)に老中の阿部が急死したことによって生じた。唯一、斉昭を理解していた阿部の死後、斉昭は幕府の中で孤立し、その年の夏に海防参与(幕政参与)を辞した。
幕府における海防参与・幕政参与の地位は、水戸藩の頼りない立場を補っていたが、斉昭の辞職により、幕府と水戸藩の政治的な関係は不安定な状態に陥っていく。
幕府に提案「自らの米国派遣」
開国に続いて起きたもう一つの外交的危機は、アメリカとの通商条約締結である。それは、斉昭と幕府との間に取り返しのつかない分断を引き起こした。同時に、水戸藩内における内部対立の引き金となり、中央の政治における水戸藩の影響力の、著しい減退をもたらすのである。
安政4年、幕府はアメリカの通商条約締結の要求を受け入れることを決めた。年末には、その意思を斉昭に伝えたが、当然、斉昭は激怒した。斉昭は押されたままの交渉には形勢逆転が必要だと認識し、大胆な提案を幕府に対して行なった。
「将軍家の一族である私をアメリカに派遣してくだされば、これ以上の友好の証はないだろう」
これは単なる外交使節ではなく、武士や農民、町人の青少年を約300〜400名率いて現地に赴く「出貿易」を、斉昭は企図していた。「出貿易」は斉昭の年来の主張だったが、これを行なう代わりに米国が日本から退去することに同意させることで、神国日本が夷狄から護られると考えたのである。
この提案に幕閣は困惑し、老中の堀田は斉昭を「よからぬ人」として、嫌悪感を示した。そして、水戸藩の郷士たちがハリスを暗殺しようとした事件が発覚すると、幕閣は水戸藩を疑うようになる。
安政5年の初頭、幕府は条約の勅許を得ようと朝廷に打診した。朝廷がこれを拒否したことは、幕府の権威に深刻な打撃を与えたが、幕閣は斉昭と水戸の攘夷派が策謀し、朝廷の拒否姿勢を惹起したとして非難した。
勅許をめぐる混乱収束と事態の前進を図るには、幕府権力を強化する有能なリーダーが必要だと老中たちは考え、同年4月、井伊直弼が大老に就任する。近江彦根藩主の井伊は、徳川家に最も忠実な譜代大名・旗本らを率い、西洋との条約を締結する断固とした意志をもっていた。
大老となった井伊は、親斉昭の反条約勢力を政権から追い出し、勅許を得ることなく日米修好通商条約を締結した。
この報を聞いた斉昭は、尾張藩主・徳川慶恕(のちに慶勝。水戸家と血縁が近い)、子息の水戸藩主・慶篤とともに、許可なく江戸城に登城し、条約の勅許を求めるとともに、将軍継嗣問題などについても井伊に申し入れを行なった(不時登城)。
敬意を欠き、規則を守らない斉昭らの態度に井伊は怒り、斉昭による将軍継嗣を巡る陰謀についての噂を聞いていたこともあって、その要望を拒んだ。同年7月、斉昭は再び幕府から謹慎を命じられ、親斉昭派の処分も行なわれた。
幕府中枢から追放された親斉昭勢力(一橋派)は、同年8月、反撃に転じた。それは、孝明天皇の水戸藩への密勅という形で現れた。いわゆる「戊午の密勅」である。
1.条約無勅許調印に対する譴責
2.斉昭らへの処分への異議
3.大名衆議による幕府運営
このような内容の勅書が、幕府の頭を通り越して水戸藩に下ることは、未曽有の事態である。その対応をめぐって、水戸藩の改革派(尊王攘夷派)は鎮派と激派に分裂し、藩政の安定性をさらに弱める結果となった。
https://news.goo.ne.jp/article/phpbiz/entertainment/phpbiz-20210406220446090.html

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アクアプランネット 札幌で「武四郎レストラン」出店へ 松阪市長に計画報告 三重

2021-04-18 | アイヌ民族関連
伊勢新聞 2021/04/17 10:00
 【松阪】飲食店経営「アクアプランネット」(三重県松阪市大黒田町)の福政圭一社長(51)は13日、松阪市役所で竹上真人市長と面会し、札幌市に10月1日開業するホテルで松浦武四郎をテーマにしたレストランを出店する計画を披露した。
 同社は東京、大阪、名古屋の都市圏で20店舗を経営。県のアンテナショップ「三重テラス」も運営している。
 ホテルは札幌市の札幌大通公園テレビ塔横に三菱地所が全国展開の一環で1億円かけて建設する。国内初の高層ハイブリッド木造工法を採用する11階建て、約130室。名称は「The Royal Park Canvas SAPPORO」。
 アクアプランネットは1階のレストランと2階のラウンジ、屋上のバーを運営。レストランの店名候補に「松浦武四郎」がある。松浦武四郎は北海道の名付け親として知られる松阪市小野江町出身の探検家。
 レストランでは北海道食材をメインにしたフランス料理を提供。「松浦武四郎」「北海道の自然」「アイヌ」をテーマに三重県の食材も取り入れ、松阪牛と白老牛、タラバガニと伊勢エビなど北海道と三重の食べ比べメニューを考案している。
 福政社長は「松浦武四郎から150年たって再び松阪から北海道へ出ていくドラマ性がある」と抱負を語り、竹上市長は「楽しい話ですね」と激励した。
https://news.goo.ne.jp/article/ise/region/ise-20210417100008.html

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【評伝】 エディンバラ公爵フィリップ殿下 揺れる幼少期から英女王の伴侶へ

2021-04-18 | 先住民族関連
BBC 2021/04/17 12:10
英王室のエディンバラ公爵フィリップ殿下は4月9日、ロンドン近郊のウィンザー城で亡くなった。99歳だった。73年以上連れ添ったエリザベス女王を常に支え続けたことで、イギリス国内だけでなく、世界的に広く尊敬される存在となった。
しかし、「女王の配偶者」という役割は、決してたやすいものではなかった。誰にとっても難しかったはずだが、海軍将校で護衛艦の艦長を務め、海軍での将来を嘱望されていた男性にとってはなおさらだった。ましてや、様々な事柄について確たる意見を持っていた男性にとっては。
とはいえ、そうした強い性格の人だったからこそ、エディンバラ公は女王の伴侶としての責務を効果的に果たしたし、王女から女王になった妻を全面的に支えることができたと言える。
女性君主の男性配偶者として、フィリップ殿下には憲政上の公的な地位はなかった。しかし、フィリップ殿下ほど女王に近く、女王にとって大事な存在はほかにいなかった。
ギリシャからイギリスへ
「ギリシャのフィリップ王子」は1921年6月10日、ギリシャのコルフ島で生まれた。出生証明書には1921年5月28日と記載されているが、これは当時のギリシャがグレゴリオ暦をまだ採用していなかったためだ。
父親は、ヘレネス国王ゲオルギオス1世の息子、「ギリシャとデンマークのアンドレオス王子」だった。祖父ゲオルギス1世は、フィリップ殿下が生まれる8年前に暗殺されている。
母親はバッテンベルク家のルイ王子の長女、アリス王女だった(一家は第1次世界大戦中、イギリス風に「マウントバッテン」と改姓)。
アリス王女はヴィクトリア英女王のひ孫で、後にイギリス最後のインド総督、「ビルマのマウントバッテン伯爵」となったルイ・マウントバッテン卿の姉でもあった。つまり、フィリップ殿下はヴィクトリア女王の子孫として、エリザベス女王とは遠縁に当たる。
ギリシャで1922年に政変が起きると、アンドレオス王子と家族はギリシャから追放された。1919〜1922年にギリシャ王国とトルコが戦った戦争で、ギリシャが大敗した責任を軍事法廷で取らされたからだ。
遠縁にあたる英国王ジョージ5世が軍艦を派遣し、家族を救出。一家は海路、イタリアへ避難した。1歳半のフィリップ王子は艦上で、オレンジの木箱をベッド代わりに寝かされていた。ジョージ5世がギリシャの親類をこうして助けたのは、1917年にやはり遠縁にあたるロシアの皇帝ニコライ2世と家族を、革命勢力から救出できなかったことを後悔していたからだとも言われている。
一家はやがて、パリ郊外サン・クルーにある親類のコテージにたどりついた。フィリップ殿下は近くの学校に通い始める。姉4人の下の末っ子、ただ1人の男の子として、温かい家族に囲まれて過ごした。
しかし1930年になると、熱愛していた母アリス王女が統合失調症と診断され、精神病院に入院することになった。
生まれつき耳が聞こえなかったアリス王女は、活発で勇敢な女性で、1912〜1913年のバルカン戦争の最中にはフローレンス・ナイチンゲールのように最前線の野戦病院で兵士の看護に携わった。それから30年後の第2次世界大戦中には、アテネの自宅にユダヤ人をかくまい、後にイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」としてたたえられている。
しかし、1922年にギリシャから逃れて間もなく、アリス王女の行動は不安定になり、自分はキリストと結婚した地上唯一の女だと妄想している統合失調症だと、医師に診断された。フィリップ殿下の祖母にあたるアリス王女の母は、フィリップ殿下たちが外出中にアリス王女を連れ出して、スイスの療養所に入院させた。
1930年5月のこの日を最後に、幼いフィリップ殿下が家族全員と暮らす日々は終わった。父アンドレオス王子は家族をかえりみなくなり、パリやモンテカルロ、ドイツやギリシャなどをこれといったあてもなく行き来する日々を送った。4人の姉たちは2年もしないうちに、次々とドイツの皇族と結婚。残された8歳のフィリップ殿下は、当初はロンドンのケンジントン宮殿で母方の祖母のもとに身を寄せた後、母親の伯父、ミルフォードヘイヴン子爵ジョージの居宅に引っ越した。その後8年間、殿下は「ジョージー伯父さん」を保護者として、複数の寄宿学校で学んだ。
英南部サリーの小学校を経て、1933年になると革新的な教育者クルト・ハーン氏がドイツ南部に創設した寄宿学校シューレ・シュロス・ザーレムに入学した。ユダヤ系のハーン氏が間もなくナチス・ドイツの迫害を逃れて英スコットランドに移ったのに合わせて、ハーン氏が新たに創設した寄宿学校ゴードンストンに転入した。
母が療養所に入院させられて最初の2年間、殿下は数えるほどしか母親に会えなかった。その後の5年間は、アリス王女の状態は以前より落ち着いていたものの、息子との音信は途絶えていた。これが自分にどう影響したか、後に伝記作家に聞かれた殿下は、「ただ日々を過ごすしかなかった。そういうものだ」とだけ答えている。
フィリップ殿下の幼少期について伝記を出版した歴史家フィリップ・イード氏は、「8歳にしていきなり両親や4人の姉と引き離され、二度と同じ家で家族と暮らすことがなかった」経験の影響について、こう書いている。
「後に公務であちこちへ行くようになると、何かと人に詰問したり、ずけずけ問いただしたり、時に驚くほど単刀直入でぶしつけな発言をすることがあり、やがてそういう人だという定評につながった。友人に対しても自分の気持ちを表に出そうとせず、ぶっきらぼうでずけずけと物を言うその態度は、親しい仲間にも強い印象を残した」
「自分の感情を隠しがちなだけに、時にいきなりとげとげしく、よそよそしくなるその姿に、親しい友人でさえ驚くことがあった。これは不安定な幼少期の影響だろうと思われていた」
海軍へ
スコットランドの寄宿学校ゴードンストンでフィリップ殿下は、やっとひとつの場所に落ち着くことができた。家族がばらばらになり、あちこちへ転々とする不安定な幼少期を経験した殿下にとって、自律と規律を重視するハーン校長が築いたゴードンストンの校風は理想の環境だった。10代になってついに安定した安住の場所を得た殿下は、ここで学業のほかスポーツや演劇などに取り組んだ。
しかし1937年になると、姉の1人と家族が飛行機事故で死亡。16歳の殿下に訃報を伝えたハーン校長は、殿下が「泣き崩れたりせず」、「男らしく悲しみを受け止めた」と書いた。しかしフィリップ殿下自身は、「とてつもない衝撃だった」と後に話している。
ドイツとの戦争がいつ始まってもおかしくない時世にあって、フィリップ殿下は軍人を志した。英空軍を希望したものの、母方のマウントバッテン家は海軍や海とのかかわりが深く、殿下は結局、海軍士官候補生として英南東部ダートマスの海軍兵学校に入学した。このとき海軍にするよう殿下を説得したのが、おじのルイ・マウントバッテン卿だった。
1939年7月に、英国王ジョージ6世が王妃や2人の王女を連れて兵学校を訪問した際には、フィリップ殿下がエリザベス王女とマーガレット王女の案内役を務めた。この段取りを手配をしたのも、マウントバッテン卿だった。
この出会いがエリザベス王女には決定的なものとなった。王女はこの時、恋に落ちたと言われている。
一方のフィリップ殿下は5歳年下の13歳の少女にいきなり恋したわけではなく、戦時中の1943年末、ウィンザー城でクリスマス休暇を過ごしたころに初めて、王女の気持ちを返すようになったとみられている。
フィリップ殿下は兵学校で頭角を現し、1940年1月には首席で卒業。士官候補として任官し、インド洋で初の軍務に就いた。
次に地中海艦隊の英戦艦ヴァリアントに異動し、1941年のマタパン岬沖海戦での働きは後に殊勲報告で取り上げられた。
艦のサーチライトを担当していた殿下は、夜間の作戦行動で重要な役割を果たした。
「別の艦を発見してその中央部分を照らし出したところ、その艦は至近距離から大量の砲撃を受けて直ちに消え去った」と、殿下は2014年にBBCラジオに話している。
1942年10月までには、英海軍で最も若い中尉の1人として、駆逐艦ウォラスに乗艦していた。
婚約
この間、殿下と若いエリザベス王女は文通を続け、殿下はたびたび王室に招かれ、居宅に滞在していた。
1943年のクリスマスに殿下がウィンザー城を訪れた後、エリザベス王女は海軍の制服姿の殿下の写真を、自室に飾るようになった。
2人の恋愛は戦後になって本格的に花開いた。殿下からのプロポーズは、1946年の夏にスコットランドの王宮バルモラル城に滞在中のことだったと言われている。
殿下は国王ジョージ6世に王女との結婚の許可を求めたものの、当時は一部の廷臣がフィリップ殿下を「ドイツ的」で「荒っぽくマナーが悪い」と嫌っていた。マウントバッテン卿がおいを通じて、王室内で自分の勢力を伸張しようとしていると警戒する廷臣も大勢いた。
ジョージ6世はむしろ、やっと戦争が終わったばかりなのにまだ若い大切な長女を手放したくないという気持ちから、当初は結婚を認めるかためらっていたようだ。しかし、エリザベス王女はフィリップ殿下に夢中だった。
そしてフィリップ殿下にとっては、8歳で失った家族との暮らしを、やっと手に入れるチャンスだったのかもしれない。
王室の邸宅に滞在後、殿下はエリザベス王妃(エリザベス女王の母)への礼状で、「家族で一緒に楽しく過ごすその素朴な喜びと、私もご一緒して楽しんで良いのだと、歓迎されていると感じる」ことをいかにありがたく思っているか、書いたこともある。
幼いころに「その素朴な喜び」を失った殿下が、自分の家族を持ちたいと強く願ったとしても不思議ではない。
しかし、2人の婚約を発表できるようになる前に、殿下は国籍と姓を変える必要があった。ギリシャ王族の王子の地位を捨て、イギリス市民になり、そして母方の姓「バッテンベルク」をイギリス風に変えた「マウントバッテン」を名乗ることにした。
結婚式の前日になると国王ジョージ6世が英王室の「His Royal Highness(殿下)」の称号を与え、結婚式の朝にはエディンバラ公爵とメリオネス伯爵とグリニッチ男爵の地位を与えられた。
結婚式は1947年11月20日、ロンドンのウェストミンスター寺院で行われた。当時のウィンストン・チャーチル首相は、戦後の物資不足などに苦しむイギリスに「きらっと光る彩り」が差し込む機会だったと語った。
海軍将校としてのキャリアは中断
結婚後、エディンバラ公爵は海軍の軍務に戻り、地中海のマルタへ赴任することになった。ここで夫妻は短期間ながら、一般的な駐在武官の生活を送ることができた。
長男のチャールズ王子は1948年にバッキンガム宮殿で生まれた。長女のアン王女は1950年に生まれた。さらに1960年にはアンドリュー王子、1964年にはエドワード王子と家族は増えていった。
公爵は1950年9月2日に、海軍将校なら誰もが目指す艦長に就任。調査船マグパイの艦長となった。
しかし海軍でのキャリアは間もなく中断を余儀なくされる。国王ジョージ6世の体調が悪化し続けていたためだ。エリザベス王女は父王の公務を代行することが増え、それには夫の支えを必要としていた。
エディンバラ公爵は1951年7月、軍務を退いた。海軍の現役将校として任務に戻ることはなかった。
当時の同僚たちは、公爵があのまま勤務を続ければ英海軍の武官トップ、第一海軍卿にまで上り詰めたかもしれないと評した。
公爵自身、いったん決めたことをいつまでも後悔し続けるような人ではないものの、海軍でのキャリアを続けられなかったのは残念だと、後に発言している。
軍務を離れた公爵はエリザベス王女と共に1952年、英連邦加盟諸国の歴訪に出かけた。これはそもそも国王夫妻に予定されていた長旅だった。
世界の半分が
王女と殿下は、王の訃報が届いたとき、アフリカ・ケニアの狩猟小屋に宿泊中だった。
国王ジョージ6世は1952年2月6日、冠動脈血栓症で亡くなった。それを受けて、「今やもう、あなたが女王だ」と妻に告げる役目は、フィリップ殿下に託された。
この時のフィリップ殿下は、まるで「世界の半分」が自分の上に落ちてきたような様子だったと、近くにいた友人は後に語った。
海軍でのキャリアを失った殿下は、自分の役割を真新しく模索しなくてはならなかった。女王の配偶者の役割とはいったい何なのか、決まった答えは当時まだなかった。
戴冠式を前に王室は勅許状を発表し、あらゆる場面でフィリップ殿下は女王の次席として他の全員の上位に立つものの、憲政上の公式な権限はもたないと表明した。
そうした立場で殿下は、王室や王制をいかに現代社会に見合う形で刷新するか、様々なアイディアを持っていたものの、王族や廷臣の間の守旧派から強固な抵抗に遭い、王室改革の可能性に幻滅していった。
子供たちの姓も
公爵は代わりに、友人たちとのつきあいに時間を割いた。ロンドン中心ソーホーのレストランで毎週、男同士の親しい仲間たちと個室で会食したほか、気心の知れた友人たちとの昼食会も相次いだ。ナイトクラブにも良く通った。華やかな同伴者といる様子を撮影されることも、しばしばだった。
公式な権限は与えられなかったものの、家族の中ではフィリップ殿下が家長だった。それでも、自分の子供たちの姓を、自分と同じものにすることはできなかった。
エリザベス女王は1952年、一家の姓は「マウントバッテン」ではなく「ウィンザー」になると決定するに至った。これはフィリップ殿下にとって、大きな打撃だった。
「私はこの国でただ1人、自分の子供たちに自分の名前を与えられない男だ」と、殿下は友人たちに不満を漏らしていた。「自分はただのみじめなアメーバだ」と。
(編注:王室によると、王家の姓は「ウィンザー」だが、1960年に女王夫妻は、王女や王子ではない自分たちの直系の子孫や、他家に嫁ぐ女性王族は「マウントバッテン=ウィンザー」を名乗ってもらいたいと表明した)
子供の親として、フィリップ殿下はぶっきらぼうで無神経に見えることもあった。
チャールズ皇太子の伝記作家ジョナサン・ディンブルビー氏によると、皇太子は子供のころ人前で父親に叱責されて泣き出してしまったこともあるし、父と長男の関係は決して平坦なものではなかった。
気骨
フィリップ殿下は、チャールズ皇太子の教育について、自分が学んだ英スコットランドの寄宿学校ゴードンストンに同じように行かせるのだと決めていた。引っ込み思案な性格の息子を、学校の規律が鍛え上げてくれるものと、良い意味で期待していたからだ。
しかし皇太子はゴードンストンが大嫌いだった。ホームシックになり、しばしばいじめられ、みじめな思いをしながら学校生活を送った。
長男の教育に関する公爵の態度は、自分自身のつらい、そして時には孤独な生い立ちを反映したものでもあった。公爵は幼くして自分のことは自分でするしかなかったし、自分のような気骨や意志の強さを誰もが持ち合わせているわけではないのだと、なかなか理解できなかったのだ。
若者が1人で生きる力や独立心を育てたいと願う殿下の気持ちは、やがて1956年に「エディンバラ公爵賞」の創設という形で結実した。
エディンバラ公爵賞は大成功を収めた。世界中の15歳〜25歳を対象に、チームワークや状況対応能力、自然を尊重する心などの育成を目的とした様々な野外活動を通じて、身体的にも精神的にも情緒的にも困難を克服し成長する機会を、長年にわたり提供してきた。創設以来、プログラムの参加者は約600万人。障害のある若者も大勢参加している。
「どのような分野の活動でも、若者に成功する機会を与えれば、その成功体験による感動が、大勢に伝わる」と、殿下はかつてBBCに公爵賞の意義を話していた。
殿下は生涯を通じてエディンバラ公爵賞の推進に多くの時間を割き、日々の業務や数々の式典に関わり続けた。
道徳的な道理
殿下は、野生動物や環境の保護も熱心に推進した。ただしインド訪問中の1961年にトラを撃ち殺したことは激しく批判されたし、その殺したトラを狩りの成果として見世物にする写真が公表されたことで、さらに批判は高まった。
それでも殿下は、世界自然保護基金(WWF)を精力的に支え、名誉総裁に就任した。
「この地球上にこれほど見事なまでに多彩な生き物が住んでいるのは、素晴らしいことだと思う」と、殿下はかつてBBCに話した。
「それに加えて、もし自分たち人間に生きるか死ぬかを決める力があるなら、絶滅か生存かは私たち次第だというなら、道徳的に理にかなった形でその力を行使すべきだと思う。絶滅させる必要がないなら、なぜ絶滅させなくてはならない?」
ただし、ライチョウなどの狩りを擁護するその姿勢は、一部の自然保護活動家の怒りを買った。
「狩りの獲物となっている種の場合、来年も獲物としたいから生き残って欲しいわけだ。農業と一緒だ。作物として収穫したいだけで、根絶させたいわけではない」というのが、狩猟に関する意見だった。
その一方で、世界の森林保護に尽力し、水産資源の乱獲に反対し続けた活動は、広く称賛された。
歯に衣着せぬ
フィリップ殿下は製造業にも強い興味を示した。各地の工場を視察して回り、工業協会のパトロンにもなった。
1961年には経済界の集まりで典型的に直接的な物言いで、「皆さん、だらだら時間を無駄にするのはもうやめましょう」と言ったりした。
歯に衣着せぬ発言の数々は、傲慢さの表れと受け止められることもあり、批判を招くこともあった。とりわけ海外訪問中となると、状況をかなり読み間違える人だという評判は、確実に固まっていった。
特に、1986年に女王と共に中国を公式訪問した際の発言が、しきりに批判された。イギリスからの留学生たちに向かって、「これ以上ここにい続けたらみんな、細いつり目になるよ」と言ったのは、内々の発言のつもりだったが、イギリスのタブロイド紙は大騒ぎした。ただし、中国国内ではそれほど問題にもならなかった。
さらに2002年にオーストラリアを訪問した際には、先住民族のビジネスマンに「まだ槍(やり)を投げ合っているんですか」と尋ねている。
こうした発言の数々はしきりに批判されたものの、その一方で、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」の規範に縛られない気概の表れだと評価する人たちもいた。
実のところ、フィリップ殿下のいわゆる「失言」の数々は、単にその場の空気を和らげて皆をリラックスさせようとしてのものだと、そういう意見もあった。
殿下はその生涯を通じて、熱心なスポーツマンだった。関わった競技はセーリング、クリケット、ポロ、馬車競争などと多岐にわたり、国際馬術協会の会長も長年務めた。
夫婦の悩みに共感
ジョナサン・ディンブルビー氏がチャールズ皇太子について書いた公式伝記が1994年に出版されると、エディンバラ公爵とチャールズ皇太子の難しい親子関係があらためて注目された。皇太子が自ら長時間のインタビューに応じるなどして協力したこの伝記には、レイディ・ダイアナ・スペンサーとの結婚を皇太子に押し付けたのはエディンバラ公爵だったと書かれている。
公爵が強引で息子に冷淡だったという批判はたくさん出回った。しかし公爵は実のところ、子供たちの結婚が次々と破綻(はたん)していた当時、世間で思われている以上に、子供たちを支えようと苦心していた。
子供たちの結婚生活の問題を、率先して理解しようとしたのは公爵だった。もしかすると、自分自身が結婚によって外から王室に入った人間なだけに、それがいかに難しいことか覚えていたからかもしれない。
4人の子供のうち、アン王女、アンドリュー王子、そしてチャールズ皇太子の3人が、離婚するに至り、父フィリップ殿下を悲しませた。
しかし、殿下は決して自分たちの私生活や内心の思いについて語ろうとしなかった。1984年には新聞の取材に対して、これまでも語ってこなかったのだから、今さら語り始めるつもりなどないと答えている。
高齢になっても精力的な活動ぶりは衰え知らずだった。女王と共に、あるいは自然保護基金のため、世界中を飛び回り続けたし、1994年にはエルサレムに母の墓参を果たした。エルサレムに埋葬されたいというのが、母アリス妃の願いだったのだ。
さらに1995年には、対日戦線勝利50周年を記念する行事で、バッキンガム宮殿前の大通りを行進する退役兵士たちを女王と並んで見守るのではなく、退役兵の1人として女王の前を行進した。
フィリップ殿下は第2次世界大戦中、海軍士官候補生として地中海戦線に参加しただけでなく、1945年9月に日本が東京湾で降伏文書に調印した際には、調印式の行われた米軍艦ミズーリ号の近く、英軍艦ウェルプに海軍将校として任官していたのだった。
そして殿下は、旧日本軍の捕虜となって重労働など辛酸をなめた元英兵たちが、受けた扱いを許すのが難しい、あるいはむしろ決して許すことなどできないというその心情に、表立って同情を示した。
「最愛のパパ」
1997年8月にダイアナ元妃がパリで事故死すると、イギリス国民の間で激しい王室批判が高まった。
元妃と共に死亡した恋人ドディ・アル・ファイド氏の父モハメド・アル・ファイド氏に至っては、元妃の死因審問の場で、2人はフィリップ殿下の命令で殺されたのだと発言。これは検視官が真っ向から否定した。
それでも、元妃の死を悲しみ憤る世論を前に、フィリップ殿下のつっけんどんな表向きの態度は、少しずつ柔らかなものに変わっていった。
さらに2007年には、殿下がダイアナ元妃に冷淡だったという見方を否定する目的で、2人の往復書簡が公表された。
「最愛のパパ」書簡と題された手紙の数々から、ダイアナ元妃がいかに温かい言葉でフィリップ殿下に手紙を書き送っていたかが明らかになった。殿下が義理の娘を親身になって支えていた様子も、世間の知るところとなった。
「自分の流儀」
エディンバラ公爵は、自分というものを強固に抱いた強い意志の持ち主で、独立独歩の精神の人だった。
生まれついてのリーダーだったが、イギリス社会の中心を占めるその地位ゆえに常に2番手の位置にいた。
その旺盛な競争心は、繊細かつ慎重であることを求められる立場にあって、なかなかしっくり収まらず、ぎくしゃくすることもあった。
「自分が上手にできると思うことをやっただけ」だと、殿下はかつてBBCに話した。「自分のやり方をいきなりまるごと変えるなどできないし、自分が何に関心があるかも変えられない。物事に自分がどう反応するかも変えられない。それが自分の流儀なんだから、しょうがない」。
そうして何十年と女王を支え、自分自身が支援する慈善団体や組織のため行事に出席し続けた殿下は2017年8月、ついに公務から引退した。
バッキンガム宮殿によると殿下は1952年以来、単独で2万2219回もの公務に出席した。2017年当時のテリーザ・メイ首相は「公共に奉仕し続けた素晴らしい人生」に感謝すると殿下をたたえた。
さらに同年11月には、エリザベス女王との結婚70周年を迎えた。
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人工股関節置換手術を経てもなお、殿下はウィンザー城の敷地内で馬車を運転し続けた。自動車の運転も続けていたが、2019年1月には王室の居宅サンドリンガム近くの公道で交通事故の当事者になってしまった。
衝突した車の女性2人が負傷する事態となり、公爵は自主的に運転免許を返納した。
2020年に入り新型コロナウイルスのパンデミックが起きると、女王夫妻は3月にロンドンのバッキンガム宮殿を離れ、近郊のウィンザー城に移った。2021年1月には2人してワクチン接種を受けた。
「私の力と支え」
フィリップ殿下は自分の立場を使って、イギリスの暮らしに多大な貢献をした。そして、月日と共に変わる社会の態度に合わせて、王室がそれを受け入れられるよう、自分なりの役割を果たした。
しかし間違いなく、殿下の最大の功績は、エリザベス女王を長年にわたり常に揺ぎなく、強固に支え続けたことだろう。
イギリスの歴史で最も長く王の配偶者だった殿下は、自分の役割は「女王が女王として確実に統治できるようにすること」だとかつて伝記作家に語っていた。
そして結婚50周年を祝う金婚式の行事で、女王は自分の夫をこう称えた。
「ほめ言葉をあまり嬉しがらない人ですが、長年の間ひとえに私の力と支えであり続けてくれました。そして私と家族全員や、この国をはじめ数多くの国々が、本人は決して主張しないし私たちは決してその全容を知りえないでしょうが、それほど多大な恩義を彼から受けているのです」
全ての写真の著作権は著作権者に帰属します
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