PHPオンライン衆知 2021/04/17 12:00

いつの時代でも改革者は弾圧されるが、明治維新に影響を与えた水戸藩主・徳川斉昭も例外ではない。しかし日本を想う熱き男にも思わぬ形で改革の機会が訪れた。
江戸幕府を倒し、近代日本を創り上げたのは「薩長土肥」と言われるが、水戸藩なくして、維新は成し遂げられなかったといっても過言ではない。長州の吉田松陰も、薩摩の西郷隆盛も、「水戸学」の影響を受けていたのだ。では、水戸学とはいかなるものだったのか――。ハーバードに学び、イェール大学で教鞭を執る新進気鋭の歴史学者マイケル・ソントンが、明治維新を「水戸」の視点から読み解く。
本稿では、徳川斉昭が一度は失脚しながらも再び幕政改革を押し進め、水戸藩主でありながら幕府のご意見番に至った経緯に迫る。
※本稿は、マイケル・ソントン著『水戸維新』(PHP研究所)より、一部を抜粋編集したものです。
老中・水野忠邦との連携で"ご意見番"に
藤田東湖による田畑の検地、弘道館の建設、武士の土着化など、いくつかの藩政改革に加え、徳川斉昭は、費用の節約や藩政の統一を図る対策として、江戸の水戸藩邸に常住する家臣のうちから約200名を国元へ戻した。
こうした改革が成功を収めると、斉昭は幕政への関心を高め、天保9年(1838)、『戊戌封事』と題する長大な意見書を幕府に提出する。
それは、賄賂の横行をはじめとする道徳の弛緩、外交問題、財政問題、行き過ぎた商業活動といった、当時の課題への批判と対応策を示し、水戸藩を参考に幕府に改革を促すものだった。
のちに、この『戊戌封事』やその解説などがまとめられて出版され、各地の武士たちの間に広まっていった。また、当時の幕府老中の一人である水野忠邦は、斉昭に丁寧な返事を送り、提案された改革を受け入れる態度をみせた。
天保10年(1839)、その水野が老中首座に就任し、幕府の実権を握った。彼は斉昭の考えに影響を受けつつ、財政再建や奢侈の禁止、農業振興など、いわゆる天保の改革に着手する。
ただし、水野は斉昭の見方と異なる立場もとっている。文政8年(1825)に出された無二念打払令を緩め、天保13年(1842)には天保の薪水給与令を出して、外国に対する融和的な政策に転じたのは、その代表的な例だ。
積極的な国防政策を論じてきた斉昭は、当然のごとく水野の対外政策に激怒した。それでも両者の協力関係が失われたわけではない。
幕府との良好な関係の下で、開放的な性格と率直な物言いで広く信奉者を得た斉昭は、「御三家のリーダー」「幕府のご意見番としての副将軍」といった評価を受けた。それは、彼が幕政改革を推進する基盤の一つとなったのである。
こうした点で、斉昭は成功を収めたといっていいだろう。しかし、水戸藩、国政を問わず、その攻撃的な手法と伝統的な権威への攻撃は、多くの敵を作った。
水戸藩の保守門閥派は改革を嫌い、質素倹約令の締めつけや、藤田東湖のような下級武士の昇進に対して恨みを抱いた。天保10年には70余人が、改革の撤回と斉昭の予定した就藩(お国入り)の延期を強訴している。
幕府側においても、複雑な派閥政治に直面した水野の立場が強固であるとはいえなかった。その上、幕府の改革は混乱をもたらす側面もあり、不満が拡大していた。
したがって、水野の協力をある程度得られたにもかかわらず、江戸と水戸における政治環境は、斉昭にとって安定しているとはいえなかったのである。
蝦夷地への植民と失脚
財政改革や農業振興を推し進めた斉昭だが、水戸藩の財政悪化に終止符を打てなかった。藩の収入を増すために、より野心的な構想として打ち出されたのが、蝦夷地開拓による水戸藩の増封である。
二代藩主の光圀以来、蝦夷地は水戸藩が交易を目指した場所だった。そのことを知っていた斉昭は、天保5年(1834)以降、数度にわたって幕府に蝦夷地開発計画を提出し、その様々な目的を繰り返し主張した。
まず強調したのは国防である。蝦夷地は日本の安全保障上、重要な場所であることを強調し、18世紀末にロシアが南下してきた前後に考えられた蝦夷地統治案を、再び進めるように幕府を促した。
ロシアの脅威に対する「北門」の守りの脆弱さは、「神国の大患」であるとし、幕府が積極的な防衛政策をとらなければ、外国から侮りを受ける危険性があることを暗に述べている。
「農業などの移民を奨励し、蝦夷地、千島列島、樺太といったアイヌの土地を、完全に日本の統治下に置く」ことを、斉昭は主張したのである。しかし、寛政11年(1799)、幕府は蝦夷地を天領化したが、文政4年(1821)に松前藩へ返している。つまり、幕府は直轄化に失敗した過去があった。
幕閣は蝦夷地開発の必要を認めつつも、斉昭が天保10年に提出した大胆な提案を、受けつけようとしなかった。この時の提案は、水戸藩を嫡子に任せ、斉昭が家族とともに蝦夷地へ移住するというものであった。
具体的には、若い家臣たちや農民・職人を水戸から引き連れていき、蝦夷地に城と町を作って広大な植民地の中心地に据え、蝦夷地を一大穀倉地帯に変える。この植民地を日本の北辺防備の要とする、という考えであった。
再三にわたって、斉昭はこの意見書を検討するよう幕府に促したが、老中の大久保忠真や水野忠邦は曖昧な態度に終始した。斉昭が北方に独自の基盤をつくることで、幕府に対する潜在的な脅威になりかねないという批判が、幕閣内から出たからである。
・水戸藩内にある改革反対勢力の存在
・幕閣との緊張関係
・領土的野心の証拠として使われてしまいかねない蝦夷地開発計画
ここに斉昭が転落する条件は揃い、反斉昭勢力が反撃を始めるまでに時間はかからなかった。天保14年(1843)、ある程度の協調を保ってきた水野忠邦が失脚し、反改革派が幕政の中心に返り咲いた。
「幕府の特別な配慮」と称して、5,6年の在国許可を与えられ、体よく江戸の政治から遠ざけられていた斉昭は、江戸に呼び戻されてから隠居謹慎を命じられる。天保15年(1844)5月のことである。
幕府が藩主に隠居を申し渡すことは、小藩や外様大名に対しては珍しくないが、御三家の当主に対してはあまり例のないことだった。
この処分の公式な理由として、1.大砲製造と鉄砲の揃打、2.財政難の偽り、3.蝦夷地への執着への疑い、4.浪人の召抱、5.水戸東照宮の祭儀変更、6.寺院破却、7.弘道館の土手の高さ(無断築城の疑い)の7カ条に加え、非公式での追鳥狩の実行などの5点が挙げられた。
これに対して、斉昭は一つずつ理由を述べて反論したが、幕府は取り合わなかった。斉昭は不服ながらも、藩主の地位を13歳の嫡男・慶篤に譲り、江戸の水戸藩中屋敷駒込邸での謹慎生活に入った。
これに伴い、藤田東湖、会沢正志斎、戸田蓬軒など、藩の要人となっていた改革派のほとんどが解任され、蟄居や幽閉の処分にあった。そして、門閥守旧派が藩政の主導権を握り、斉昭の改革は中断するのである。
藩士・農民たちによる雪冤運動
斉昭の処分が水戸藩に伝わると、改革派は雪冤(冤罪を雪ぐ)運動を起こした。弘化元年(1844)7月、農民の一団が江戸に上って、各藩の屋敷に赴き、斉昭の無実を訴えた。
続いて、処分を受けていなかった改革派の藩士たちも江戸に上り、幕閣に上書を提出し、神官たちも江戸で斉昭の赦免を求める活動を展開した。
斉昭はこうした運動を心強く思いながらも、藩士・農民たちの江戸行きを慎むよう、藩庁・郡奉行所を通じて通達させた。自らの進退に関することで、水戸藩を崩壊させるような挙に出るのを望まなかったのである。
というのも、彼らの行き過ぎた行動が幕府を刺激し、御三家当主に対する隠居謹慎という異例の申し渡しを行なった幕閣が、改易や減封などの処置に出ないとも限らない、という危惧が頭をよぎったのであろう。
斉昭が謹慎になってから100日後、幕府は幽閉の条件を多少緩めたものの、解除には至らなかった。この間も雪冤運動は広がりをみせ、水戸の士民が江戸に上って運動を展開したため、江戸の一部は騒然となった。
10月16日には水戸藩南部の農民約4,000人が千束原(水戸市)に、他の地域から農民約5,000人が清水原(那珂市)に集まり、斉昭の解放を要求した。その中には、江戸に出府しようとした義民集団もあったという。
改革派の藩士たちがこれをけしかけたとの噂が流れたが、ほとんどの農民たちは自らの思いで参集していた。これは斉昭の愛民の思想と農村への気遣いにより、農村に斉昭支持が広がっていたことを如実に示している。
こうした運動が奏功したのか、処分から200日後の11月末に、斉昭の処分は解除された。雪冤運動に加わって江戸に上った農民と藩士は一定の処罰を受けたが、かえって真の忠義者としてみられた。
改革派の中には、雪冤運動に積極的ではなく、事の成り行きを傍観した「柳派」と呼ばれる穏健派もいた。斉昭の雪冤をめぐって「不忠不義を討つ」とする「天狗派」と、穏健な柳派とに改革派が分かれ、彼らの共通する敵として保守門閥派が存在することになった。
こうして水戸藩では、イデオロギー的な断層が拡大していったのである。斉昭は謹慎を解除されたものの、以前のように政治の陣頭指揮に立つことは許されなかった。若い慶篤は名目だけの藩主であり、水戸藩の実権は保守門閥派が握っていた。
斉昭と改革派の行動を恐れた保守門閥派は、多くの改革派藩士を処罰するとともに、隠居となった斉昭の側近くまで間諜を放って監視した。これに対して斉昭は「神発仮名」という字を発明し、これを暗号のように使って、支持者たちと手紙をやりとりした。
斉昭の支持勢力は、水戸支藩の要人、御三家の尾張家、紀伊家、幕閣、諸藩の大名などへ直訴するなど、様々な手を尽くし、斉昭の藩政復帰を働きかけた。
しかし、同情的な声は多くとも、幕府に逆らってまで斉昭を支援する動きにはならない。そうして一年以上が過ぎた弘化3年(1846)春、一人の奥医師の下女によって希望の光が差し始めた。改革派の元水戸藩士・中村平三郎の娘は、江戸城大奥に勤める奥医師・坂玄幽の子・玄益の下で働いていた。
斉昭に同情的だった坂父子は、斉昭の支持者に対して「強引な嘆願は将軍を困らせるだけだ」と警告するとともに、「より丁寧で効果的なアプローチ方法として、大奥の女中の説得を通じて、斉昭の罪を解いてもらうべきだ」と助言したのである。
改革派は坂の助言に飛びついた。水戸徳川家は将軍家、有力大名などと養子や婚姻の縁を結んできたので、大奥の女中たちとつながりがあった。それを生かして、斉昭自身が贈り物をし、将軍・家慶への取り次ぎを依頼した。
しかし、それは大奥の内政事情で行き詰まってしまう。上臈であった姉小路と大奥年寄の三保野という、大奥の最高職を務めていた二人がライバル関係にあり、交渉が微妙なものとなったのだ。
最終的に斉昭の申し出は曖昧な返答を受け取っただけに終わり、斉昭の支持者たちは、複雑怪奇な大奥ルートをあきらめるしかなかった。
外国の脅威に対する「不可欠な人材」として
大奥に対して斉昭復権のロビー活動が行なわれている間、はるか彼方の出来事が、日本国内の政治状況を変え始めた。
英国がアヘン戦争で清を破った天保13年以降、開国通商を求める西洋諸国の数が増えた。西洋の帝国主義による勢力拡張が、新しいレベルの強度をもって東アジアに到達しようとしていたのだ。
幕府は、もはや外国を拒絶し続ける余裕がなくなりつつあり、外国勢力に対応すべく、防衛・外交に関する最善の専門知識を組織化する必要に迫られた。そこで、斉昭の存在が浮かび上がる。
当時、西洋諸国に対する国防を担える人物は、斉昭以外にはいないとみなされていた。斉昭は対外強硬の国防論で知られており、軍事改革と外国船排除の毅然たる政策を幕府に要求してきたし、水戸藩における軍事改革と蝦夷地に関する提案は、その名声をより高めたからである。
1840年代の西洋諸国の接近を知り、斉昭は、老中・阿部正弘にたびたび書簡を送っていた。そこには、オランダ国王の国書などの閲覧を求め、英仏の来航にどう対応すべきかの意見が綴られていた。
弘化3年、アメリカのジェームズ・ビッドル提督が江戸湾の沖合に到着した頃、斉昭は海防に関するご意見番のような立場を築きつつあったのだ。
阿部正弘は、水野忠邦が失脚した後の天保14年に老中に就任し、権力を握った人物である。阿部は幕府の中心となって斉昭の処分を進めたが、外国の脅威に対応する必要性が高まるなかで、斉昭が不可欠な人材であることを認識していた。
ビッドルの来航後の弘化4年(1847)、阿部は、斉昭の七男・慶喜が御三卿の一つである一橋家を継ぐように周旋し、将軍継嗣の候補者とした。ここから幕府と水戸藩の関係修復が慎重に進められていく。
弘化5年(1848)、保守門閥派に握られている水戸藩の政権を批判し、改革派の処分を若干緩和させた阿部は、嘉永2年(1849)半ばには、斉昭が藩政に参与することを許した。
嘉永元年(1848)12月に、有栖川宮家の線姫(幟子女王)を12代将軍・家慶の養女として、水戸藩主の慶篤に輿入れさせることが決まり、翌年9月には、将軍・家慶の水戸藩小石川邸への御成を実現する。
そして、嘉永5年(1852)の年末、将軍・家慶が斉昭を江戸城に招いた。ここに完全な関係修復が成った。年が明けて6月、開国を求めるアメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書を携えて、マシュー・ペリー提督が江戸湾に来航した。
斉昭の復権は、はからずも「来るべき大混乱」の直前に果たされたといえるだろう。阿部は助言を受けるために、斉昭を嘉永6年6月、幕府の海防参与に任じた。それとともに、日本中の大名たちに意見を求め、時局への対処を図った。
200年以上、外交は幕府の専権事項であり、その前例を破ったことは幕府のもつ外交権を弱体化させる危険な動きだった。しかし、できるだけ多くの意見を集めて対応することが、当時としては誠実な対応ではあった。
海防参与に任じられた斉昭は、蟄居させられていた藤田東湖と戸田蓬軒の罪を解かせ、海岸防禦御用掛に命じて補佐させた。そして7月に10カ条、8月に13カ条の提言を幕府に提出したが、これらはのちに『海防愚存』としてまとめられた。
そこには、「戦争準備のための全面的な改革を実施する」「和睦か決戦かを決断する」「海岸防備に庶民も兵隊に加える」「外交策謀を使って、日本が防衛を整えるまで時間を稼ぐようにする」などの意見が書かれていた。
さらに、方針が決定したら、国を挙げて結束するよう、全国に正式な命令を発することを促し、この年の11月に実施された。また斉昭は、水戸藩主が年来願ってきた、蝦夷地の直轄支配について幕府に要求した。
その結果、安政2年(1855)には蝦夷地の天領化が実現し、広く開拓の募集が行なわれた。水戸藩は、石狩地方における産物取引所の経営に関与することになった。斉昭の指導力は、黒船来航で不安に陥った江戸の士民を興奮させ、斉昭を大将軍に描いた瓦版が出回るほどであった。
数年にわたって、斉昭による倹約や奢侈禁止などを揶揄していたはずの士民は、対外的な極度の緊張感のなかで、祈るような気持ちで斉昭をあがめる対象にまで祭り上げたのである。斉昭が主張する「国内に防備強化を訴える」という計画は、うまくいっているようであった。
強硬派の守護者としての斉昭の評判は、江戸を越えて全国に広がり、越前藩、薩摩藩、宇和島藩、土佐藩などの藩主と斉昭との連合が形成された。
これら諸藩の藩主やリーダーたちは、斉昭や水戸学者たちの書を読んでおり、有能な指導者に発言権をもたせて改革を導入し、外国の脅威に対抗しうる国をつくろうとするビジョンを共有していた。
一方、水戸藩内において、8年にわたる保守門閥派統治で中断した軍事、教育、宗教の改革を、斉昭は再始動させた。彼は保守派に対して断固たる態度をとり、その多くを自宅謹慎や役職追放に処したために、彼らの怒りを買った。
そうしたなかで、前藩主である斉昭と現藩主の慶篤の間に、楔を打ち込もうとする企ての噂が流れた。実際に保守派は、斉昭の統治によって水戸藩士の大部分が排除されていると論じ、不公平で一方的であると慶篤に訴えた。
しかし、保守門閥派の反論をものともせず、斉昭は以前より意欲的に改革を進めた。教育においては藩内に多くの学校を建て、藩校・弘道館の本格的開館と拡張を実行したし、軍事面では、農兵の採用(土佐藩とならび全国で最も早い事例)を行ない、大砲製造のために反射炉を築いている。
安政3年(1856)に、保守門閥派の首領の一人とみなされていた結城寅寿を、表面上は賄賂と汚職の罪状で処刑した。これは、結城とその一派が、斉昭の再度の失脚や暗殺を計画しているとの噂に突き動かされたものであった。
処分の断行で斉昭の威光は示されたが、この行動は拙速であり、斉昭は疑心暗鬼に陥ったように映る。特に、安政2年の大地震で、右腕ともいえる藤田東湖を失ってから、その傾向は顕著になったようだ。
「派閥主義の助長」「改革の妨害」などの理由で、保守門閥派の藩士を逮捕・処分が続き、水戸藩内の保守門閥派と改革派の間の緊張は、さらに高まることになった。それから間もなく、江戸における斉昭の地位が低下し始めた。
嘉永6年に将軍・家慶が亡くなり、家定が跡を継いだが、30歳にして子がなく、病弱だった。そのため、将軍の継嗣問題が起きると、斉昭は実子である一橋慶喜を後継として薦めて回った。
これが紀州藩主・慶福を推す反対派を苛立たせ、さらには斉昭と同盟していた大名からも、事態を静観するようにたしなめられている。
老中の阿部は、反斉昭陣営を宥めるために、その代表格の一人である堀田正睦を老中の一人に推挙したが、この動きが裏目に出て、幕府内でも分断が起きた。斉昭を支持する若い藩士たちも反斉昭勢力の昇進に不満を抱き、激しく抗議を行なった。
幕政の大転換は、安政4年(1857)に老中の阿部が急死したことによって生じた。唯一、斉昭を理解していた阿部の死後、斉昭は幕府の中で孤立し、その年の夏に海防参与(幕政参与)を辞した。
幕府における海防参与・幕政参与の地位は、水戸藩の頼りない立場を補っていたが、斉昭の辞職により、幕府と水戸藩の政治的な関係は不安定な状態に陥っていく。
幕府に提案「自らの米国派遣」
開国に続いて起きたもう一つの外交的危機は、アメリカとの通商条約締結である。それは、斉昭と幕府との間に取り返しのつかない分断を引き起こした。同時に、水戸藩内における内部対立の引き金となり、中央の政治における水戸藩の影響力の、著しい減退をもたらすのである。
安政4年、幕府はアメリカの通商条約締結の要求を受け入れることを決めた。年末には、その意思を斉昭に伝えたが、当然、斉昭は激怒した。斉昭は押されたままの交渉には形勢逆転が必要だと認識し、大胆な提案を幕府に対して行なった。
「将軍家の一族である私をアメリカに派遣してくだされば、これ以上の友好の証はないだろう」
これは単なる外交使節ではなく、武士や農民、町人の青少年を約300〜400名率いて現地に赴く「出貿易」を、斉昭は企図していた。「出貿易」は斉昭の年来の主張だったが、これを行なう代わりに米国が日本から退去することに同意させることで、神国日本が夷狄から護られると考えたのである。
この提案に幕閣は困惑し、老中の堀田は斉昭を「よからぬ人」として、嫌悪感を示した。そして、水戸藩の郷士たちがハリスを暗殺しようとした事件が発覚すると、幕閣は水戸藩を疑うようになる。
安政5年の初頭、幕府は条約の勅許を得ようと朝廷に打診した。朝廷がこれを拒否したことは、幕府の権威に深刻な打撃を与えたが、幕閣は斉昭と水戸の攘夷派が策謀し、朝廷の拒否姿勢を惹起したとして非難した。
勅許をめぐる混乱収束と事態の前進を図るには、幕府権力を強化する有能なリーダーが必要だと老中たちは考え、同年4月、井伊直弼が大老に就任する。近江彦根藩主の井伊は、徳川家に最も忠実な譜代大名・旗本らを率い、西洋との条約を締結する断固とした意志をもっていた。
大老となった井伊は、親斉昭の反条約勢力を政権から追い出し、勅許を得ることなく日米修好通商条約を締結した。
この報を聞いた斉昭は、尾張藩主・徳川慶恕(のちに慶勝。水戸家と血縁が近い)、子息の水戸藩主・慶篤とともに、許可なく江戸城に登城し、条約の勅許を求めるとともに、将軍継嗣問題などについても井伊に申し入れを行なった(不時登城)。
敬意を欠き、規則を守らない斉昭らの態度に井伊は怒り、斉昭による将軍継嗣を巡る陰謀についての噂を聞いていたこともあって、その要望を拒んだ。同年7月、斉昭は再び幕府から謹慎を命じられ、親斉昭派の処分も行なわれた。
幕府中枢から追放された親斉昭勢力(一橋派)は、同年8月、反撃に転じた。それは、孝明天皇の水戸藩への密勅という形で現れた。いわゆる「戊午の密勅」である。
1.条約無勅許調印に対する譴責
2.斉昭らへの処分への異議
3.大名衆議による幕府運営
このような内容の勅書が、幕府の頭を通り越して水戸藩に下ることは、未曽有の事態である。その対応をめぐって、水戸藩の改革派(尊王攘夷派)は鎮派と激派に分裂し、藩政の安定性をさらに弱める結果となった。
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