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アイヌ文化継承へ むかわ町に交流施設完成 記念式典で祝う

2021-04-04 | アイヌ民族関連
NHK 04月03日 12時23分
胆振のむかわ町でアイヌ文化を継承するための交流施設が完成し、記念の式典が開かれました。
かつてアイヌ語で呼ばれていた地名にちなんで「イモッペ生活館」と名付けられたこの施設は、むかわ町がアイヌ文化の継承や地域住民との交流を促進するため、国の交付金を使って完成させました。
3日に開かれた記念式典で、竹中喜之町長は「白老町にウポポイが開設されアイヌ文化の振興が進められる中で、この施設も多くの人に活用してもらいたい」とあいさつしました。
木造平屋建ての施設にはアイヌの着物や儀式で使う道具など150点が展示されているほか、今後はアイヌ文様の刺しゅう講座や古式舞踊の稽古にも活用されます。
むかわアイヌ協会の澤本幸雄会長は「アイヌ民族の資料が見やすく展示してあり、感動しました。生活館を拠点にしてアイヌ民族の文化を次の世代に伝えていきたい」と話していました。
https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20210403/7000032538.html

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<東胆振・日胆 歴史を歩く>八王子千人同心 異郷に果てた移住隊士

2021-04-04 | アイヌ民族関連
北海道新聞 04/03 19:02
1月半ば、苫小牧市勇払地区の勇払橋から東へと歩き出した。背後には樽前山が見える。江戸後期の1800年(寛政12年)春、勇払に着いた「八王子千人同心」の移住隊士100人も、この山を遠望したはずだ。
 隊の任務は蝦夷地(えぞち)の警衛と開拓、アイヌ民族の「撫育(ぶいく)」。ロシアの南下を警戒する江戸幕府に、「千人頭」(隊長格)の原半左衛門が移住を願い出た。原は同心の嫡男以外の救済を意図しており、隊士の多くは次男三男や「厄介」と呼ばれ、食いぶちのない親族だった。
 明治の屯田兵に先駆けた「農兵」たる移住隊。半数50人は半左衛門の弟、原新介に率いられて勇払に拠点を置き、農耕適地とされたむかわ町汐見地区を畑作地とした。勇払から直線距離で19キロ。風浪の打ち付ける海岸と原野のはざま、草深い踏み分け道だったろう。
■相次ぐ死者
 その原野は、今や苫小牧港東港区の工業地帯。舗装路を大型トラックが行き交う。昔も今も東胆振は交通・物流の要衝だ。江戸期の勇払は、石狩低地帯を縦断して日本海岸に至るルート(勇払越え)と、日高を経て道東に至るルートの結節点。交易の拠点であり、警衛の要地でもあった。
 北海道電力苫東厚真火力発電所の傍らを抜け、JR浜厚真駅まで約10キロ歩いた。日没を考慮し、車でむかわ町の道の駅「四季の館」へ移動。そこから汐見への往復6キロを歩く。汐見は農地が広がっていた。この地を移住隊士も耕したのだ。
 付近の「鵡川大漁地蔵堂」(同町宮戸)に、地域住民が1985年に建立した千人同心の追悼碑があった。ここで没した7人の俗名が刻まれ、うち6人は名前だけで従者のようだ。唯一姓のある「市川彦太夫」は、文化3年(1806年)1月9日没とあった。
 移住隊は厳寒と栄養不足で病人や死者が相次ぎ、移住から4年後の1804年に解散したが、帰郷せず蝦夷地に残る者が多かった。市川もその一人。半左衛門は解散後に希望者を土着させ、市川もそうしたと思われるが、蝦夷地に長く住むことはかなわなかった。
 市川は移住翌年、病に倒れた同胞を八王子まで送り届け、すぐに蝦夷地へ引き返している。今よりはるかに困難な道のりを任地へ戻りながら、何を思ったろう。「厄介」には蝦夷地より居場所がなかったのか。苫小牧市美術博物館によると、人となりを伝える史料は確認されていない。
■農地に墓碑
 2月に訪れた同町花園の永安寺に市川の墓碑があった。風化の進む砂岩に刻まれた俗名がかろうじて読み取れる。汐見で農地を開墾中に土中から発見されたという。同寺に移され1983年に市川のものと確認後、手厚く安置された。
 「市川の墓碑は、自分たちが切り開いた汐見の農地を見下ろす高台に据えてあったのでは」。むかわ町郷土史研究会長の土井重男さん(76)は語る。
 移住隊の解散後、半左衛門は幕府の役人となり、やがて八王子へ戻り将軍に拝謁(はいえつ)する栄誉を得た。新介も江戸へ帰り、ともに八王子で眠る。原兄弟に付き従い、異郷で果てた市川の墓碑は、永安寺でひっそりと立ち続けている。
(中川大介)

 「東胆振・日高 歴史を歩く」は、さまざまな人物が歩いた道をたどり、見慣れた風景に織り込まれた歴史の物語を見つめます。「どうしん電子版」に、紙面に載せきれなかった写真などを掲載します。(原則として月1回掲載します)
<ことば>八王子千人同心 江戸期、八王子(東京都八王子市)にいた半士半農の下級武士集団。北方警備強化へ江戸幕府が1799年に東蝦夷地(知床岬~渡島管内)を直轄領としたのを受け、同心子弟らが1800年に100人、01年に30人と2陣に分かれて蝦夷地へ移住。勇払と白糠(釧路管内白糠町)に各65人が入った。04年に解散した時点で130人のうち32人が亡くなり、帰郷したのは19人だった。1858年から2度目の移住隊約40人が七重(渡島管内七飯町)に入り、一部が箱館戦争に加わった。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/529328

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空港や機内で台湾旅行気分 JALら、成田発着の周遊フライト運航

2021-04-04 | 先住民族関連
トライシー 2021年4月3日
国内で旅行気分を味わってもらおうと、日本航空(JAL)は台湾観光局、成田国際空港(NAA)らと共同で、成田空港発着の特別周遊フライトに乗るイベントを開催した。空港や機内に台湾の雰囲気を再現し、参加した153人が台湾旅行気分を満喫した。
JALによるこの趣旨の成田空港発着の周遊フライトは、昨年12月のシンガポール編に続き2回目。今回は同空港を正午に出発し、午後3時30分に帰着する約3時間30分の周遊フライトで、台湾観光局が「味覚、視覚、聴覚を通じた台湾体験を楽しんでもらいたい」と様々な仕掛けを用意した。
フライトが出発する第2ターミナル国内線エリア付近には台湾をイメージした装飾が施され、中華圏で縁起物とされるブタ「金豬」のランタンや、人気の観光地「九份」のフォトスポットなどが登場。参加者は、台湾先住民族のアミ族の伝統衣装を纏った台湾人スタッフが立つ入境審査風のブースで、パスポートを模した台紙に“入境スタンプ”を押してもらっていた。
機材は国際線用のボーイング767-300ER(機体記号︰JA618J)を使用し、便名はJL3399便(運航上の便名はJL4981便)。中国語で「3399(sansanjiujiu)」は「長長久久(changchangjiujiu)」(=末永い)の発音と似ており、日台間の友好が永遠に続いてほしいという願いが込められているという。
機内では今回のイベントのために特別に用意された台湾料理メニューを提供。参加者は機内モニターに流れる台湾各地の映像を見ながら機内食を味わい、旅行気分に浸っていた。食事後は台湾グッズが当たる抽選会を開催。中華圏の祝儀袋「紅包」が1つずつ配られ、袋の中に当たり券が入っていた人にはぬいぐるみや台湾茶がプレゼントされるというもの。さらに、絵葉書にメッセージを書いて特設ポストに投函すると、台湾の郵便局を経由してエアメールで日本に届くというユニークなサービスも用意された。
JL3399便は成田空港を出発後、午後12時45分頃に富士山付近を通過し、長野県松本市上空を旋回して北陸方面へ。富山湾上空から四国方面に向かい、午後2時頃に高知県上空を経由して関東方面に戻るハート型のルートで飛行した。
参加者の中には、これまでに何度も現地を訪れている“台湾リピーター”だけでなく、「台湾に行ったことがないので気分を味わってみたい」という人もいた。JALによると、申し込み倍率は約7倍だったという。実際の台湾への観光渡航が再開する見通しは立たないが、台湾観光局は「解禁後の台湾旅行を楽しみにしてもらえれば」とコメントしている。

▲入境審査風ブースに立つアミ族衣装を纏ったスタッフ
https://www.traicy.com/posts/20210403205149/

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