撮りさるく

有名かとこっちゃ無名のとこっちゃ 写真ば撮ってさるくざい

大野原高原

2024-02-23 08:12:50 | 長崎
2023年8月16日(水)


15時07分、東彼杵町は大野原高原に至った。



海洋県 長崎とは思えぬ風景だ。北海道のどこかだと言っても疑われぬであろう。



標高450m、自衛隊の演習場が高原の多くを占めている。



この高原は佐賀 長崎の県境に位置する。長崎県道6号線大村嬉野線の長崎 佐賀県境の辺りから、やって来た方向、長崎県東彼杵町側を振り返る。何もない。



県境の辺りからこれから進む佐賀県は嬉野市側を見た。茶畑があって、民家も散在しており、ここに限って言えば、佐賀の方が長崎より都会であった。

龍頭泉

2024-02-22 07:36:52 | 長崎
2023年8月16日(水)


14時42分、東彼杵町は龍頭泉の入口に至った。



急坂を下ると



千綿川が見えてくる。



そして14時46分、龍頭泉に到着、落差およそ15mという。



説明看板。東彼杵町のHPによると、弘化2年(1845年)、当地を訪れた豊後日田の儒学者 広瀬淡窓がこの渓谷の美しさに驚き、千綿渓四十八潭と称し世に広め、かつこの渓谷全体を一匹の龍に見立て、上流にある一番大きな八間滝と呼ばれていたこの滝を「龍頭泉」と名付けたとの事。



接近



下流の方向、沢山の家族連れで賑わっていた。



滝を堪能後、戻る。坂を登っていると、白人男性二人と黄色人の女性ひとり、合わせて3人とすれ違った。
ここは東彼、クルマのナンバーも佐世保ナンバー、長崎の経済圏を外れて佐世保経済圏という土地柄を踏まえると、男性は行楽で来た米海軍関係者、女性は恰好からしてガイドの人だったかもしれぬ。



上りは結構急で汗だくとなった。



そして14時56分、駐車場へと戻ったのであった。

三井木場堤

2024-02-21 07:57:06 | 長崎
2023年8月16日(水)


14時31分、東彼杵町は三井木場堤に至った。



明暦元(1655)年、初代深澤儀太夫勝清によって作られた、溜池である。









初代深澤儀太夫勝清(1584(天正12)年~1663年(寛文3)年)は、現在の佐賀県武雄市生まれ。勝清は諸国武者修行の途上、和歌山県太地町で捕鯨を学び、大村に来て捕鯨組を組織し、五島灘での捕鯨で巨万の富を得た。大村藩の依頼により新田開発に私財を投じ、8月14日に訪れた野岳湖をも作っているのだ。
勝清の没後は 二代勝幸、三代儀平次重昌(勝幸次男)と三代にわたって公共事業に私財を投じ地域に貢献したのである。



鹿ノ丸村成立三百年を記念し、初代深澤儀太夫勝清、二代勝幸、三代儀平次重昌(勝幸次男)の三代の偉業を称え建てられた、深澤三代顕彰碑。平成十四年八月吉日 東彼杵町 とある。
青々と実った稲穂を目にして、お三方も喜んでいる事であろう。

下八龍の線刻石仏 おおむら夢ファーム シュシュ

2024-02-20 07:21:10 | 長崎
2023年8月16日(水)


帰省Uターンの途上の14時13分、大村市は下八龍の線刻石仏に立ち寄った。



ぱっと拝見したところでは、どこに線刻石仏がおわすのか判らぬが



近寄るとわかるのであった。彫られた時期は不明との事、合掌。


さてこの線刻石仏があるのは

おおむら夢ファーム シュシュという道の駅みたいな施設の駐車場なのであった。写真左側の建物は地元農産物の直売所、右手の建物では



焼き立てパンを売っていて盛況だった。フードコートみたいなものもあったと思う。



季節によっていちご狩りやブドウ狩りが楽しめ、別棟にレストランもあり、駐車場は分散するが100台分以上はあると思う。



眺めも良いゆえ、お近くをお通りの際は、立ち寄られては如何かと思う次第である。

今富キリシタン墓碑

2024-02-19 07:45:27 | 長崎
2023年8月16日(水)


14時03分、長崎県指定史跡である大村市は今富キリシタン墓碑を訪ねた。



史跡ではあるが、お墓ゆえ頭を垂れ失礼をお詫びして撮影。故人が眠っておられるので、接近撮影はやめておいた。

大村市や長崎県の観光案内HPをまとめるに

この墓碑は、半円柱型のキリシタン墓碑で、墓石の上部、本来なら伏碑にした場合、正面にあたるところに、「台付干十字紋」を刻んだ典型的なキリシタン墓碑である。
天正四丙子十一月十一日/不染院水心日栄霊/一瀬治部大輔」と墓碑に刻んであるため、ここに眠るは日本初のキリシタン大名 大村純忠とともに洗礼を受けた一瀬栄正と考えられてきた。
が、この看板が設置されたあとの調査で墓石に刻まれた「干十字紋」の横に「慶長十九年」(1614年)の文字が発見された事から、墓の主は別人の可能性が出ているらしい。
キリシタン禁教時代に入ってからはキリシタン墓地の探索と破壊が行われ、取り締まりが厳しくなった事から、墓碑を縦に起こし、仏教の戒名を刻んで仏式墓碑に改造して今に至るという。

故人が眠る墓碑まで破壊したとは、禁教の過酷さを思いながら、現地を後にしたのであった。

キリシタン史跡 鈴田牢跡 地図付き

2024-02-18 08:53:53 | 長崎
2023年8月16日(水)長崎駅近傍のコインパーキングを出発し、国道34号線、県道37号線 三浦半島を走り1時間24分後の


13時37分、大村市は鈴田牢跡に至った。



説明看板。鈴田牢は長崎奉行によって、キリシタン禁教時代に捕らえた宣教師や信者の方々を入れるために作られた牢屋で、地名から宮崎牢とも呼ばれていたという。



この牢屋には1617(元和三)年1月から1622(元和八)年9月まで、宣教師と信者あわせて延べ35人が入れられ、3人は牢内で死亡、24人は長崎市の西坂(現 長崎駅前のNHK長崎放送局の裏)に送られ処刑、8人は大村市内の放虎原で処刑された。



牢の広さは5.3x3.5m、この中に最大で33人が閉じ込められていたという。



十字架の横に木枠で囲われているのが復元された牢屋の広さである。合掌



この鈴田牢跡、公共交通機関での訪問は難しい。すぐ脇に礼拝者用の駐車スペースがあるがクルマ2台分くらいしかないので早めの行動が必要だ。

以下地図である

長崎駅終端

2024-02-17 07:36:51 | 長崎
2023年8月16日(水)三泊四日の帰省を終え、都合により早く帰らねばならぬ息子を長崎駅まで送った。


11時20分、長崎駅終端を見た。もろに線路が途切れている様が見て取れる。



駅西口にある会議場、出島メッセ、その奥は一泊5万円くらいするホテル、ヒルトン長崎である。
この後駅構内に入り、息子の切符購入と長崎土産購入に付き合い、新幹線の時間まで間があるというので路面電車の一日乗車券売り場へ案内、長崎市内を少しぶらぶらするというので筆者はひと足先に故郷を発つことにして、コインパーキングへと向かった。



長崎県庁、浦上川河口に架かる旭大橋に隠れて駅からは良く見えない。



12時13分、コインパーキングからみた長崎県の警察本部。この後、復路はひとり、自宅に向けてハンドルを握らねばならぬので、安全運転を心して長崎県の警察本部を眺めた後、出発したのであった。

長崎大学の船

2024-02-16 07:25:17 | 長崎
2023年8月15日(火)息子と長崎帰省。お墓参り以外の時間は暇なのでペーパードライバーの息子の運転練習を兼ねドライブ。味の宝船 林屋で昼を済ませた後


12時23分、船を見に行った。



長崎丸、長崎大学水産学部の練習船でHPによれば、全長68.93m、総トン数1,311トン、速力13.5ノットというから時速約24.3km出せる船である。



デカい。



近寄れなかったが後部から見たところ。トロールの設備があるようで底引き網漁ができるようだ。



もう一隻、小さいのが係留されてあった。



長崎丸に比べだいぶ小さい。



鶴洋丸、全長42.79m、総トン数155トン、速力15.0ノット、時速約27kmの沿岸航行船である。船首のマークは鶴であり、長崎の港はその形から「鶴の港」と古来呼ばれており、そこから名付けられた船名と思う。



そして二隻の船が係留されている傍には、長崎大学水産学部の施設たる



環東シナ海環境資源研究センターがあった。筆者が卒業した高校から長崎大学へは毎年100人弱が進学しており、誰かからここでは缶詰を作っていると聞いた記憶がある。



そして鶴洋丸の近くには、長崎県総合水産試験場の鶴丸、全長 33.5m、総トン数99トン、速力12.5ノットが係留されていた。鶴洋丸より小さい。



また長崎丸の前方には陽光丸、全長58.6m、総トン数692トン、速力13ノットが係留されていた。国立研究開発法人 水産研究・教育機構所属の漁業調査船である。



長崎丸には旗がなびいていたが、端っこがだいぶ擦り切れていた。



12時40分、長崎丸の煙突に描かれた長崎大学の学章を見た。長崎大学のキャンパスは国立総合大学にしては狭い(文教 187,129㎡)のだが、長崎丸のキャンパスは広大な東シナ海なのであると、長大OBではないにもかかわらず息子に自慢して、現地を後に式見、手熊、小江原と、じげモンにしか判らぬ町をドライブして、実家に戻ったのだった。

長崎海鮮丼

2024-02-15 07:48:28 | 長崎
2023年8月15日(火)息子を伴って帰省、運転の練習も兼ねて何か長崎の地のモノを食いに行こうという事になり、


11時50分、入った店で息子が選んだのは長崎海鮮丼、1,000円



筆者は刺身定食 980円を食った。



会計時に許可を得て撮影、満員だった。



店の名は、味の宝船 林屋、新長崎漁港のすぐ近く。ウマかったのだが、グーグル地図のクチコミでは良かったというものと、二度と行かないという意見と、なぜだか判らぬが両極端だった。



店の前の国道202号線、いったん北の方、佐世保方面を目指して進んだが



12時05分、この日は精霊流しの日、夕方には流しに行かねばならず、実家に帰るのが遅くなるとマズイゆえ、長崎市方面へ南下する事にした。

角煮まんを買って長崎新地中華街を後にした

2024-02-14 07:57:22 | 長崎
2023年8月14日(月)


19時16分、最初は空席があったが、いつの間にか満席になっていた新地の中華街の龍園でウマいちゃんぽん食って会計を済ませ(弟が払うというのでゴチになった)実家への帰路につく途上



目星をつけておいたこの店、タピパンダ



実家への土産として我ら3人の分も含め、肉まんと角煮まんを7個づつ購入した。なぜこの店かというと、一番安かったからである。実家に帰って食ってみたところ、ビールとも相性が良くいずれもウマかったのだが、写真を撮り忘れた。また筆者の後に来たお客さんは筆者が7個も買ってしまったのでほしい分だけ買えず、他の店へ行ってしまった、誠にスイマセンでした。

ちなみにこのタピパンダ、帰宅後調べてみたら台湾が本店のタピオカ屋だそうで、こういうシャレオツな店は筆者が長崎にいた頃はなかった。


土産を買ったあと門を出た。
神戸の中華街によく行く息子はしきりに「神戸の中華街に比べてショボい」と言っていたが、それを言っては元も子もない。神戸は知らぬが横浜中華街を知る筆者としては痛いところを突かれた感じだが、故郷が一番、それでいいではないか。



浜の町方面を望む。



新地中華街も小ざっぱりとしてきれいになったものだ。



そしてビルの谷間から少しだけ見えた長崎人の心の山、稲佐山(人によっては風頭山、唐八景、八郎岳、岩屋山という場合もあり)を眺め、故郷を離れて早40年、ウマいちゃんぽん食って、ふるさとの 山に向かいていう事なし、と清々しい気分で19時24分、実家への帰途についたのであった。