撮りさるく

有名かとこっちゃ無名のとこっちゃ 写真ば撮ってさるくざい

プーケットでゴルフだけして帰った

2008-03-24 00:02:18 | タイ王国
プーケット二日目もゴルフ。
3月9日(日)すがすがしい朝を迎えるゴルフ場。

二日目は池の多いコースを回ります。

結果はいつもどおり散々なスコアでありました。

昼どきのレストラン。白人客多し。

宿泊したクラブハウス内ホテルの廊下。

クラブハウス内ロビーにはなぜか鐘があります。

ゴルフ場を後にして再びプーケット国際空港へ。

カウンター前で並ぶ人々。

帰りの飛行機はドンムアン空港行きタイ航空。行きと違って乗客のほとんどがタイ人。タイ航空の客室乗務員はタイ式合掌をして見送ってくれます。右の客室乗務員は陸上女子走り幅跳びの池田久美子選手にそっくりでした。

乗ってきた飛行機。

ドンムアン空港の出口付近。ニューヨークの公園でバスケットでもやってそうな屈強な黒人男性がたむろして騒いでおり少し引いてしまいました。


プーケットに行ってゴルフをした

2008-03-22 02:59:06 | タイ王国
タイの南の方にプーケットという島があります。この島にゴルフをしに行くからお前も来い、と言うので単身駐在員3名と家族が来る前にゴルフをやるだけやっておきたい1名のツアーが開催されたのでした。
スワンナプーム国内線レストランから空港の庭園を望む。3月8日午前7時頃。

朝の滑走路

チェックイン後、沖留めの飛行機に搭乗。乗客は白人が目立つ。

というか乗客の95%は白人。これは本当にタイの国内線なのか。

景色を見たかったがあいにく窓際はこれまた白人が占拠。

1時間きっかりでプーケットへ到着。乗ってきた飛行機。

プーケット国際空港出口。乗客を出迎える地元旅行会社のあんちゃんたち。ここでようやくタイであることを実感。しかしバンコクより格段に暑い。

有無を言わさずゴルフ場へ直行。天気がいい分陽射しも刺すような感じ。

バンコクは一年中暑いが日本の真夏よりは遥かに過ごしやすい。しかしここプーケットは日本の真夏並みの暑さ。

このゴルフ場でタイガーウッズ選手がすごい事をやったそうです。その時の写真だと更衣室のカウンター係のお兄さんが言ってました。

ゴルフを終えて宿泊先のホテル(クラブハウス内)の部屋へ。こじんまりしているが豪華な感じがする。

箪笥かと思ったら中にテレビが入ってました。

部屋からクラブハウス入り口を望む。

二日目に続く

佐賀大学体育会合気道部幹部交代

2008-03-11 01:37:53 | 佐賀
3月8日(土)に行われました。
またまた「写真ば撮ってくっぞ。」と長崎弁丸出しで意気揚々と佐賀まで出かけて行った、わが佐賀大学体育会合気道部OB会長崎支部長(43)は、練習風景の写真を撮り忘れ、その後の宴会では酒の飲みすぎで酩酊する事甚だしく、一次会は写真撮影をこれまた忘れ、二次会はむっくり起き上がって数枚の写真を撮っただけで宿泊先のカプセルホテルへ撤退。
ご自慢のキャノンのデジカメも赤目軽減機能すら使用することなく、もっとちゃんとした持ち主に使って欲しかっただろうなあ、と哀れを誘いながらも被写体が良かったのか、それとも単に若いと言うだけでそこそこ見れる写真になったのか、意見の分かれるところではありますが、タイネタじゃないけど掲載します。

前回の追い出しコンパで部を追い出された美女5人組。このブログを書いてるやつは日本を追い出されました。そういや昔、中国に「4人組」とかいうのがいたなあ(古い)。それぞれ4月には社会人か大学院か家事手伝いで花嫁修業をする事になります。(だったっけ)

二次会のカラオケにて。個人的には後ろのすだれが気になってしょうがない。

左端の日本男児が新主将のT君だそうです。酒の席でも動じません。というか、顔が真っ白だけど大丈夫かい。飲みすぎると白くなる人がたまにいます(このブログを書いてるやつがそうです)。

友人と離れ離れになる卒業は悲しいものです。でも社会に出たら、ノスタルジーに浸っている間もなくなります。わたしゃ会社における上司のパワハラを何とかして欲しいッス、ハイ。

二人とも目が赤目になってます。美男美女(?)が台無し。ゲゲゲの鬼太郎の妖怪じゃないんだから。

ピースならぬ三本指。ガールスカウト経験者かな。

ともあれ、旧幹部の方々、卒業まであと1年、学生時代ならではという、やり残し事業のない様に悔いなくすごして下さい。社会人になったら自由な時間はなくなりますよ。
新幹部と部員の皆さん、新入生が入ってきた際には、大いにリーダーシップを発揮し下級生を引っ張ってください。
いつも思うがみんないい顔してるなあ。

おまけ。佐嘉神社。4年間住んでて行った事わずかしかなかったなあ。

おまけその2。松原川。長崎支部長曰く、いい散策路になってるそうです。

追伸 写真写りに関する苦情はすべて長崎支部長(43)へお願いします。たけちゃん次こそ新勧ばい。酔っ払う前に写真ばえっと撮っとけさ。

バスで検問に引っかかった

2008-03-07 01:16:40 | タイ王国
ヘルファイヤパス見学を終え、陸軍基地を後にする。基地前の道路、ミャンマー国境方面を望む。田舎だが道路は良い。タイはどこへ行っても道路はよく整備されています。


これがバス停。バス停へ向かう時にちょうどバスがやって来た。手を振って止めようとしたが無視され通過。バス停小屋で1時間待つ羽目に。

カンチャナブリ方面を望む。誰もいない小屋のベンチで横になると、うとうとしてしまった。

そのうち人の声で目を覚ます。女子高生2人組みが起こしてくれた。「変な外人さん、バスが来たべさ、早く早く」などと言っているのであろう、3人で駆け込み乗車。なぜか車内から車掌のあんちゃんも降りてきて「レオレオ(急げ急げ)」と言いつつ我々を後ろからせかす。

車窓風景

車内はがらがら。1時間前に通過したバスはほぼ満員で屋根に荷物まで積んでいたが、これにして正解。しかし時刻は1時40分になろうとしていた。滝を見る時間はない。1時間のロスはでかい。滝を断念。

往路で軍に拘束されそうになった地点。ミャンマー国境が近い為、国境警備隊による車内検閲があります。まったく知らなかった。前の乗降口から迷彩服を着たグリーンベレーみたいなおっさんが、後ろからは憲兵隊みたいな格好をしたおっさんが入ってきて客席を回り始めます。麻薬検査かと思い、席に回ってきた憲兵に荷物を見せると流暢な英語で「IDカードを見せろ」という。
免許証しか持っていなかったので拘束されかかりましたが事なきを得ました。


帰りも同じ地点で検閲に会う。今度は二人ともグリーンベレーだったが理由を説明し、免許証を見せると簡単に「OK」。ありゃりゃ、人によって違うのか?
上記2枚の検問所写真は帰りに撮影。ちなみに止められていたのはすべてバスで一般車はフリーパスさせてました。交通量が多かったからでしょうか。

再び車窓の景色。

日本にもありそうな山です。バンコクは平野で山がないので、長崎生まれは山を見るとなぜかほっとします。

カンチャナブリに戻りロットトゥー乗り場を探し出す。バスターミナルから歩いて踏み切りを渡ってすぐ。

切符売り。130バーツ。


おお、新車だ。

始発から乗ったのは男子大学生とその連れのガールフレンドと長崎人の3人のみ。しかしあちこちより道をして乗客を拾いまくり、

アヌサワリーにつくまで3時間半もかかりました。バスの方が安いし早い。早く移転したというバスターミナルを探し出さねば。

ヘルファイヤパス

2008-03-04 02:05:15 | タイ王国
泰緬鉄道の難所、コンユウの切り通し、すなわち「ヘルファイヤパス」へ到着。到着後、上から覗き込むとこんな感じ。なぜここが「地獄火峠」と呼ばれるようになったか。

泰緬鉄道は当時の日本軍の正式呼称で「泰緬連接鉄道」というそうです。1942年7月に着工。

当時の英領インドのインパールを攻略し、インドからミャンマー、雲南省を経て中国へ抜ける援蒋ルートといわれた中国への補給路を絶つ為に行われた作戦の物資補給を目的とした鉄道だったそうです。
タイのノンプラドックとミャンマーのタンビューザヤを結ぶ全長415kmの鉄道の完成には最低5年は必要との戦前の英国の調査があるそうですが、日本軍はこの鉄道をわずか1年3ヶ月で完成させました。


タイ国内の鉄道経路はカンチャナブリまでは比較的平野が多く、難工事でもなかったのですが、そこから先は山岳地帯となり、熱帯のジャングルに阻まれ、工事は容易には進みませんでした。このコンユウの切通しは特に難所となりました。


この切り通しは上から溝を掘るような形で掘られていきました。


作業は簡単なコンプレッサードリルやダイナマイトを一部用いた以外は、ツルハシ、ショベルで人手による掘削で行われ、


最盛期はSPEEDとDOを語呂合わせにした「SPEEDO」と呼ばれた突貫工事が行われ、そのうち12週間は24時間ぶっ通しで作業が続けられました。一人当たりの作業時間は18時間でした。

徹夜作業で工事現場は沢山のたいまつやかがり火で照らされ、その中でやせ細った捕虜たちがふらふらと作業に従事する、あるものは動作が緩慢だと日本兵に暴行を受け、あるものはその場で息絶え、

わずか73mの長さ、25mの深さの溝を掘るのに400人以上の人がなくなりました。

かがり火は捕虜の人々を地獄へと導く送り火となったのです。




ここの犠牲者のほとんどはオーストラリア軍捕虜でした。

オーストラリアの方にとっては聖地となっています。

あちこちに国旗が飾られています。



当時ここにいた日豪両軍の兵士たちは好き好んでここに来たのではなかったでしょう。それぞれどのような思いでこの風景を眺めたのでしょうか。

枕木だけ残っている箇所。


当時の線路跡。

カンチャナブリ方面を望む。ここから少し先は危険な為進入禁止になっています。

路傍の石に当時の痕跡あり。

ミャンマー方面を望む。ここから先は4kmほどの遊歩道になっています。時間の関係で踏破は断念。




切り通しの入り口にはめられた 故エドワード・ダンロップ氏を顕彰するレリーフ。彼はここの保存財団の支援者でもあり、彼自身オーストラリア軍の軍医として捕虜となり、この地で氏は同僚とともに献身的に捕虜に治療を施し、病を得、死を迎えんとする絶望感にさいなまれた捕虜たちに希望の光を与えたそうです。

彼は生きて無事復員しました。1993年に86歳の天寿を全う、1年後、ここに氏の遺灰がまかれたとの事。レリーフの結びの言葉。「これを見ているあなたへ、家に帰ったら皆に伝えて欲しい。この地で我々は我々の未来を、あなたたちの今日の為にささげたのです」

今は平和な世の中ですが

皆さんどのような思いでこの地を訪れ、

この地でどのような思いをめぐらせ


何を考えながら帰路につくのか。

結局人それぞれではないのかと。


オーストラリアから来た女性。日本人だというと「私の娘のために、これからもずっと仲良くしていきましょう」

博物館は入場無料、タイとオーストラリアの商工会議所が設立。心の命ずるままの金額を寄付をすればOK。募金箱に千円札2枚が入っておりました。

展示物はそう多くありません。

博物館のテラスから見るミャンマー国境へと連なる山々。

泰緬鉄道全線1943年10月の完成まで、約6万人の捕虜と27万人の東南アジア労務者が投入され、そのうち死者は捕虜1万3千人、労務者にいたっては正確な統計がなく、犠牲者は10万人を越すとの試算もあります。いまだにそのなきがらが回収されず、ジャングルの奥深く、埋もれている方も相当数おられるそうです。
日本軍も1万人を配置し、およそ千人が死亡、戦後は戦犯として70人以上が処刑されました。
     合掌

路線バスに乗ってヘルファイヤパスへ行った

2008-03-03 01:40:59 | タイ王国
2月24日(日)、乾季ならではのすがすがしい朝。今日はバスに乗って北を目指す。昨年同様ゲストハウスからオートバイに乗せてもらってバスターミナルへ。20バーツ払おうとすると「いらない」といって受け取りませんでした。わずか二度の宿泊でお得意さんになってしまった。そういや去年はミネラルウォーターが一本サービスだったが今年はバナナやちまきをくれたなあ。

カンチャナブリ8時40分発、トンパプン行きに乗車。今日の予定はヘルファイヤパスまで行き、折り返してサイヨークノイ滝を見学した後戻ってくるコース。

発車前のひと時。おっさんが席を回ってくる。バス会社の人かと思ったら、お守りを売りに来たのであった。

発車して10分くらいしてから車掌が行き先を聞きながら集金に来る。「ヘルファイヤパス」と英語で言うが通じない。タイ語の地図を指し示すと「ハーシップ(50)バーツ」。80km乗って約175円。日本の初乗り料金なみ。こんなんで採算取れるのか。バスは時速50~60kmほどの速度を一定に保ちながら結構安全運転。乗客も適度な人数で快適。エアコンがないので窓は開け放し。


2時間ほど走るとサイヨークノイ滝に到着。物売りが乗り込んできて車内販売を始める。

サイヨークノイバス停前の屋台。この並びにはセブンイレブンや食堂、よろず屋などが海の家みたいな感じで軒を連ねております。10分ほど停車。発車後、ある事柄が発端で軍に身柄を拘束されそうになったのですがこれについては後述。

サイヨークノイ滝バス停を後にして身柄拘束の危機を乗り越え、30分弱で第一目的地、ヘルファイヤパスへ到着。

ヘルファイヤパスは陸軍基地の敷地内にあり。



徒歩の場合、自由に入れます。車両は入構手続きが必要なようです。警備兵は観光客慣れしており、道案内を適宜行います。

敷地内の大きな木を目印に営門を入って右に曲がり、

次の三叉路を左に曲がり直進(写真の道)すると

お休み処が見えてきます。


そのすぐ前がヘルファイヤパス博物館。

博物館前駐車場。皆さん自家用車か乗り合いのソンテオあるいはツアーのマイクロバスで来られるようです。路線バスに乗ってやってくる外国人などこの記事を書いているやつ以外いないと思われます。

博物館を出ると左の方に下りの遊歩道あり。これがヘルファイヤパスへと続く道です。途上に案内板あり。

地図があります。

少し行くと鳥瞰図もあり。

ヘルファイヤパスへと続く遊歩道


のぼり下りを繰り返し約15分ほどかけて歩く


続く

クワイ河鉄橋とクワイ河に浮かぶ月を見た

2008-03-02 04:36:59 | タイ王国
2月23日(土) 午後5時。ゲストハウスで100CCオートバイをレンタル。24時間150バーツ(邦貨換算約575円)にガソリン30バーツ(約105円)ぶち込んで出発。

経営者ご夫妻のお孫さん。ご夫妻自身は「ピクチャー、マイダイ、マイスワイ(わてらの写真は勘弁しとくんなはれ、きれいじゃないよってに)」とのこと。

ガソリン。ウイスキー瓶に入れてあるから900CCでしょう。

オートバイでクワイ河鉄橋へ。前回はレンタサイクルだったが今回は奮発してオートバイにして良かった。あっという間に到着。橋は歩いて渡れますが、譲り合いが必要。

東岸(バンコク方)から渡りきって西岸(ミャンマー方)へ到達。

西岸から東岸を望む。この時間帯は夕涼み散歩の地元の方々多し。

西岸南方からの鉄橋の眺め。このアングルから写真を撮る物好きな観光客もあまりいないだろうなあ。

華軍碑。前から何だろうと気になっていた。碑文の漢文の意味から「英軍の要請によりビルマ防衛の為、中華民国軍の師団が当地へ派遣され、連合軍の援軍もなく、孤軍として戦い、日本軍と激戦を交え多大な犠牲を出した。終戦後は国共内戦後、中国大陸に中華人民共和国が樹立、中華民国は台湾へ逃れ、この事実が忘れ去られようとした、よってこの碑を建設した。」という意味のことが書かれておりました。合掌したのち撮影。

西岸北方の芝生広場から。語り合う白人カップルの背後から失礼して撮影。またもカラオケボートが接近。

西岸北方から東岸にある水上レストランを望む。カップルが多いなあ。

夕日を浴びる鉄橋。いいアングルだったのに、またカップルがかぶってしまった。撮りなおしだ~。

東岸へと戻る。

橋のたもとの広場から。撮りなおし成功。

東岸にある爆弾。本物ではないであろう。

クワイ河鉄橋駅を望む。

橋のたもとの物売り屋台。

オートバイの練習を兼ね、鉄橋を後にしてあちこちツーリング。山に沈む直前の夕日がまさに真っ赤で感動。オートバイを止め、写真を撮った時には沈んでいた。この夕日を見る為だけにここに来てもそれだけの価値はあり。赤い夕日が見られるのは空気が乾燥している乾季(12月~3月くらいまで)だけです。

陽が沈んでから水上レストランに戻りディナー。川沿いの席はほぼ埋まっている。若いウエイトレスAが注文を取りに来たので即座に「ビアシン」。「カー(かしこまりました)」と言ってくれたのに、近くにいた別のウエイトレスBがなにやら注意口調でAに物申している。そしたらAが「ビア、マイダイカー(ビールはいけません)。」。後で聞いたら翌日の日曜日が選挙の投票日だったことが判明。タイでは法律により選挙前日(の夕方だったか終日だったか)から選挙当日はアルコールの販売は禁止です。仕方ないからスイカシェイクジュースとカオパット(タイ焼き飯)と鳥もも焼きをひとりでもそもそ食いお勘定。

ところが店を出る時に見たら他のテーブルの白人客がビールを飲んでいる。「白人は良くて東洋人はだめなのかよ!人種差別じゃねえか!だいたい俺ら外国人は参政権がないから選挙なんて関係ねえじゃねえか!責任者を出せ!」などと言う度胸も気力も語学力もなく黙って店を後にする。

ナマズだか雷魚だかと、得体の知れぬ魚を塩焼きにしておりました。この水上レストランはロケーション、雰囲気、味の割に高くなく、個人的には好きです。ビールの件はまあ許そう。

夜のしじまを破る韓国人団体客。この方々のパワーには圧倒されます。

夕食後、再びツーリング。クワイ河に浮かぶ月。

ゲストハウスに戻り、明日は早いので早く就寝。テレビのない田舎は最高です。アルコールが販売禁止のせいか、いつもの生バンドカラオケも今日はトーンがだいぶ低い。でも営業はするんだなあこれが。

次はローカル長距離路線バスに乗り、北を目指す。続く。

泰緬鉄道博物館と連合軍墓地

2008-03-01 12:14:09 | タイ王国
カンチャナブリに到着。午後2時30分になっていた。とりあえず今夜の宿探しにゲストハウスの立ち並ぶ川沿いの通りを目指す。
カンチャナブリバスターミナル

ターミナル内売店

バスターミナル内。色とりどりのバスあり。

同待合

結局うろうろしたあげく、ソンテオで移動。満席でステップに立つ。後続車が突っ込んでこないか注意。来ませんでしたが。

連合軍墓地前で下車。宿探しの途上、以前見逃した「泰緬鉄道博物館」に入る。入場料80バーツでコーヒーか紅茶が一杯ついてきます(ただしホットのみ)。この博物館は「泰緬鉄道の技術的解説や、犠牲者の数は連合軍捕虜より東南アジア労務者のほうが多かったなどの客観的事実の展示が」あるなどと旅行ガイドブックに書かれてありましたが違います。少なくとも2008年2月23日時点では、日本人にとって針のムシロでした。前項のJEATH博物館と肩を並べる展示内容です。

博物館の二階喫茶コーナーからホットコーヒーをすすりつつ、連合軍墓地を眺める。館内は撮影禁止でした。やはり捕虜の遺品や鉄道建設のジオラマ模型、当時の映写フィルム(捕虜の犠牲は50%に達したとか何とかナレーション入り)、生々しい蝋人形(前項の第二次大戦博物館のマンガチックなやつではない)による捕虜収容所内での外科手術の様子や病棟で苦しむ負傷捕虜のありさま等、かなりショッキングな内容。
一番ショックだったのは当時の日本軍が発行した捕虜の管理用紙のようなもの。 IMPERIAL JAPANESE ARMY と印刷されたわら半紙にオランダ人の捕虜について「生年月日」「氏名」「父の名」「母の名」「捕獲場所」「連絡先住所」などの記入欄があり、英文で情報が手書きで記入されてあり、更に朱印で「死亡」「打電済」と押印されていた。

博物館を出た後、連合軍共同墓地へ。前項のチョンカイ墓地より規模が大きく、こちらにもやはりイギリス軍、オーストラリア軍、オランダ軍捕虜の方々 約7,000名弱のお墓があるそうです。

地元の方が墓地管理をされておられるようです。

草むしりをしておられました。

市街地にあるため、訪れる人は多いようで、やはり白人の方が圧倒的。ツアーのコースにもなっています。

30分ほど歩いて今夜の宿へ。実は去年11月に来た時に利用したゲストハウス。別のところを探す時間も語学力も度胸も気力もなく安直に決めました。日本人は珍しいのか、なんと顔を覚えていてくれた。エアコン、テレビなし、ホットシャワーつきでコテージ一軒一泊250バーツ(邦貨換算約850円)。去年来たときも飛び込みで泊れたが、今回も飛び込み。

川べりにあって、桜に似た花が満開でした。経営者も気さくで、自然環境も抜群ですが、このゲストハウスの最大の欠点、それは隣にある屋外カラオケ。生バンド演奏でドラム、ベースは低音をずんずん効かせ、エレキギターはギンギンに鳴り響く、これが深夜2時まで営業、酔っ払った地元の方々が大声で歌いまくり、騒ぎまくり。しかも営業終了後、酔いのさめないお客さんが居残って歓声を上げながら盛り上がる。去年泊ったときは、午前3時まで寝れませんでした。逆に昼間はものすごく閑静。

ガイドブックには「川沿いはカラオケボートが深夜まで騒がしいので川からある程度離れた宿の方が良い」という事を書いてある場合もありますが、私は断言します。川沿いどうのこうのより、近くに①カラオケ②バンド演奏のあるバー がないかどうかを確かめるべきです。川を行くカラオケボートはしょっちゅう通りませんし、深夜まで運行はしません。

クワイ河を行く名物 カラオケボート。いつもはタイ人が酔っ払って大声で歌いまくりですがまだ時間が早いのか今日は静かです。(この理由は後で判明)

異国の地にて美しい国、日本を想う。

しばし休息したのち、いよいよクワイ河鉄橋方面へ。続く